中国最古の宗教教団である正一道が成立したのは2世紀半ばの後漢時代末期〜三国時代初期の頃です。以来、現在に至るまでの約二千年間、教団の活動は中国と日本の文化と思想に多大な影響を与え、今なおその伝統は息づいています。
教団の継承を確実なものとするため、祖天師張道陵は親族に天師の位と教団を継承させる「血統相続」を採用し、代々の天師の事跡には史実を含め、戯曲や小説からの影響を受けた脚色も見え隠れしています。道教の歴史並びに初代から64代までの天師の系譜と言い伝えをまとめました。
自然から恵みを享受しながらも災害や疫病に対して為す術の無かった古代中国の人々は、天地山川の神霊を鎮め、疫病を起こすとされる悪霊を駆除するために祭祀を執り行った。『礼記』礼運は火の発見によって祭祀が始まったと説く。人々は火を利用し、金属を加工して祭器を作り、陶器を作り、料理・酒・布を供物として使用し、祭祀を執り行う環境を整えていった。また、人の目に見えない神霊を具象化するために「尸(かたしろ)」と呼ばれる者が人々の願いを聞いて供物を受ける神霊の役を演じた。尸は専門化して祭祀を司る「巫(みこ・かんなぎ)」となり、祈祷や夢占い・星占いをし、神がかりとなって予言をして神霊の言葉を伝え、人と天との交流を仲介する役割を担った。
巫は医療が未発達であった当時の需要に応えるため、深山に出入りして薬草を研究して人々を病から救い、野草・果実の毒の有無や飲用に適した水の見分け方、魚介類を加熱調理することなどを教え伝えた。巫によるこれらの功績は伝説の皇帝であり薬草学の祖である神農氏の行いとして伝えられている。道教は巫道の医学を受け継いでおり、道教教団草創期の道士は医学を必須教養として学んで道教医学の体系を作った。病気平癒に関連する符は薬理作用を持った「薬墨」という特別に調合された墨を用いて書き、湿布薬として患部に貼り、または焼いて灰にして散薬として服用する。
祭礼に長けた巫は祭官として国家機構に組み込まれた一方、民間の巫は『老子』の道家哲学をはじめとする春秋戦国時代の思想哲学を吸収し、方仙道の方士として知識人集団を形成し、彼らが得意としていた医学は病気平癒の範疇を超え、寿命を延ばし、ひいては不老不死の仙人となることへの憧れを助長させた。自らの栄華を永遠に保とうと願う王侯貴族は方士たちに不老不死の道を求めて水銀を服用し、特に秦の始皇帝が不老不死の妙薬を求め、仙人が住むとされる蓬莱島に方士の徐福を派遣したことは有名である。化学が未発達の当時は水銀の毒性が知られておらず、鉱物から銀色の液体金属が得られる特性に神秘性が付与されていた。道教でも水銀を含む化学物質を体外から取り込んで不老不死を目指す外丹道が盛んに行われたが、有害性が著しかったことから廃れ、体内で炁を錬り薬とする内丹道として現代に伝わっている。また、始皇帝の暗殺を試みて失敗した張良は仙人の黄石公から道法を学び、漢の高祖劉邦を補佐して功を成したという。正一道天師の家系は彼を遠い先祖とし、八代目の子孫を正一道の開祖である祖天師張道陵とする。
漢朝には原始中国を統一して道に基づく統治を敷いたと伝えられる黄帝に道の始まりがあるとされ、陰陽五行を統括する太一が最高神とされ、五行を象徴する聖山として泰山・華山・衡山・恒山・嵩山の五嶽が定まり、巫道・方仙道が黄帝と老子の道に基づいて仙人となる法術を伝える黄老道となった。武帝は黄老道に並々ならぬ関心を示し、天下に皇帝の即位を示す封禅の儀式へ黄老道を持ち込み、方士たちに勧められるがままに水銀を服用して不老長寿を願い、神仙を祀る場を作り黄老道の世界観を世に示すために道観を建てた。司馬遷は『史記』封禅書でその傾倒ぶりを批判的に描いている。道教では黄帝を「始祖」、老子を「道祖」として尊び、太一は元始天尊へと変化しながらも最高神としての地位を保ち、黄老道の法術や祈祷法の一端を伝えている。こうして漢朝末期になると、黄老道は儒教と共に思想界の主流を占めるようになり、正一道教団設立への素地が整えられた。
原始中国を統一したとされる伝説上の皇帝。治世に道法を用いたとされ、「始祖」として崇敬される。
『老子道徳経』を伝えた道家哲学の祖。「道祖」として崇敬され、「道徳天尊」として神格化された。
中国初の皇帝としての治世を未来永劫保つため、方仙道に興味を持ち、不老不死の薬を求めた。
始皇帝の暗殺に失敗した後に道法を修め、高祖劉邦を補佐して功を成した。天師の遠い先祖とされる。
代 | 姓名 | 生没年 | 在位年 |
---|---|---|---|
- | 張良 | 251BC-186BC | - |
そもそも、道教・宇宙・万物の真理である「道(タオ)」は特定の人物によって人為的に作られたものではない。天地開闢より道は自然のものとして世にあり、道による教化と神の道による教え導きが為されていた。それを守り伝えるのが道教や道家の役目である。
しかし現代の宗教学界では、道教は宗教、道家は哲学と分けて考えている。さらに西洋の宗教学の見地では宗教と教団組織を不可分な関係としている。このような観点に基づくのであれば、道教教団組織は中国後漢時代末期を生きた祖天師張道陵によって創設され、それが宗教としての道教のはじまりとなったといえる。
祖天師張道陵の本名は張陵、後に張道陵と呼ばれるようになった。彼は道教教団の第一代「天師」(教団の主)であるため「祖天師」との尊称で呼ばれる。彼が創設した道教教団は現代まで続いている中国最初の宗教教団として認められており、祖天師が太上老君(老子)より「正一盟威之道」を伝えられて創設したことから、正式名称を「正一盟威道」、略して「正一道」とし、祖天師への崇敬の意を込めて「天師道」とも呼ばれる。
祖天師から第三代天師が生きた時代は三国争乱の最中であった。当時の政治は腐敗を極め、朝廷は大いに乱れて宦官が跋扈し、疫病が流行した。道教の方向性はこのような時代の中で定まった。人心の不安、社会の不安、宇宙秩序の喪失の中、祖天師は天と人との仲介者となり、方仙道・黄老道を集成して正一盟威道を創設した。彼は苦難の中にある民衆のため、文官としての地位を捨てて道を修め、疫病が蔓延すると、符を焚き灰にして水と混ぜて飲ませる符水によって病を治して人々の救済にあたった。符水による病気治療は祖天師による最初の功績であり、後の道教医学・中国医学の伝統として、また、日本の漢方医学・はり・きゅう・あんまの根底思想として受け継がれている。
祖天師は神霊との戦いの末に盟約を結び、人と神霊界の分離独立を果たした後、教団の教区を二十四の「治」として定めた。「治」は管理・秩序・文明の意味である。二十四という数は二十四節季に基づいたものだ。後に二十八治へと拡大するが、この数は道教で重視する二十八の星座、二十八宿に基づいている。祖天師は民衆の教化を重視しており、正一道教団は「領戸化民」という家庭を単位とした教化活動を実践した。
毎年一、七、十月には「三会日」という集会を開いた。具体的な時期は経典によって違いが見られる。『雲笈七籤』「魂神・説魂魄」では祖天師が、三会日と天へ昇り降りする「三魂」とを関連付けていたと記されている。三魂とは全ての人に具わるとされる三つの魂のことで「上魂(胎光)」「中魂(爽霊)」「下魂(幽精)」をいい、それぞれ一月七日、七月七日、十月五日に天より降る。人が生まれて後、三魂は毎年この日に天に昇っては、その人の善悪を天に報告するので「三魂会日」という。これらの日に戸籍「命籍」が作成され、道士は新たな出生・死亡を天に上奏した。七歳以上は籙を受けることとされ、戸籍の管理がきちんと行われた。また、戒律を守る大切さが説かれ、信者は守ることとされ、自らの罪を天に懺悔するための科儀(儀礼)も設けられた。特に、懺悔の意を記した文書を天・地・水を掌る天官大帝・地官大帝・水官大帝の各々に上奏する「三官手書」は現在も執り行われている。
懺悔を重視した正一道は、各々の自宅に「靖室(静室)」を作らせ、そこを修錬・懺悔・祈祷の場として己と向き合い、心を落ち着かせ反省するために用いた。入口は東に設けられ、内部は常に清められ、出入りの音を慎み、香炉・燈明・机・文房具以外の余計な物を置いてはならないと定められた。靖室の様式は日宋・日明貿易によって日本へ伝えられた。禅僧や中国文化に興味を示す知識人が取り入れ、日本の風土に合うように改良され、「和室」「床の間」として定着した。日本文化精神の実践の場として茶道・華道・香道などで用いられ、また、神道や仏教の信仰の場として神棚や仏壇が安置されるようになった。
符水による病気治療と民衆の教化を重んじる正一道の救済活動は民衆の支持を集め、第三代天師に至り、漢中(今の中国四川省から陝西省にかけての一帯)に政教一致の道教国家を作るまでに発展した。道教精神に基づいた三十年余りの治世を敷き、「祭酒」と呼ばれる一定の資質を備えた教徒が運営し、政務と教務両方を担当した。厳罰主義を用いず、三回までは罪を犯しても赦し、三回を超えてから罰した。罪の軽い者には道路の修築などの労役をさせた。また、主要道路の要所ごとに「義舎」を設置して旅人が滞在できるようにし、米・肉(義米・義肉)を備えて彼らの食事の便宜を図った。
あらゆる秩序が保たれた道教国家で人々は平穏に暮らし、数万の民が家族を伴い、乱世の最中の理想郷を求めて押し寄せた。最終的に曹操の兵が迫ってきた時も民の命を優先して戦わず降伏した。正一道が始めた救済の伝統は道教諸派の文化となり、日本文化の根底に流れている。
中国最古の宗教教団、正一道の開祖。二十四教区を定め、「教祖」として崇敬される。
渾天儀・地動儀の発明など、偉大な科学者として歴史に名を残した。
正一道の教えを実践に高め、三国争乱の最中に道教国家を設立した。
日本の創世神話は道教の世界観から始まる。天皇の称号は道教の神に由来するとの説が有力である。
代 | 姓名 | 生没年 | 在位年 |
---|---|---|---|
1 | 祖天師張道陵 | 34-156 | 142-156 |
2 | 嗣師張衡 | 78-179 | 156-179 |
3 | 系師張魯 | ?-216 | 179-216 |
第四代天師が正一道教団の拠点を龍虎山に定めたものの、三国争乱の最中であった上、各教区の長が好き勝手な教えを説くようになったので混乱状態に陥った。特に、黄赤の道(房中術)が教団の堕落を加速させ、新天師道を設立して道教教団の綱紀粛正を説いた寇謙之、道教経典の整備に取り組んだ陸修静による道教改革の動きへと繋がっていった。
南北朝時代に仏教が盛んになると、道教との間で対立を引き起こしながらも相互に影響を及ぼし合った。仏教経典で道教の概念や文言が用いられ、中国・日本の浄土教で高僧と敬われている曇鸞大師は不老長寿を得るために道教を学んだ。道教儀式では仏教由来の法具や真言陀羅尼が用いられ、今なおその影響を見ることができる。仏教教団が整備された戒律と経典を備えていたことは道教界に大いに刺激を与え、『老君説一百八十戒』等の道教戒律が成立し、道教経典が「三洞四輔十二類」として体系化され、元始天尊を頂点とする神仙の序列が確立された。
道教界が混乱と対立に巻き込まれた一方、民間では正一道が綿々と受け継がれていった。彼らは家庭を単位とした教団を形成して正一道の儀式と修練法を守り伝えた。中でも杜明師が設立した杜治は第三代天師の頃を彷彿とさせる程の規模に発展し、「書聖」王羲之は杜治の道士でもあった。杜治は慈善事業にも熱心であり、文人の謝霊運は幼少時代を杜治の託児所で過ごした。
唐代になると老子の末裔を自任する皇室によって道教は国教に位置付けられた。歴代皇帝の信仰心は篤く、特に玄宗皇帝は道士としての資格を持ち、『老子』の注釈書を作り、道教音楽の制作を手掛け、道教経典の集大成となる道蔵の編纂に着手し、官吏登用試験に儒教経典の知識を問う科挙と併せて道教経典の知識を問う道挙を設けた。「詩仙」李白が道士でもあったように、知識人の多くが道教と多かれ少なかれ関係を持つようになったが、彼らの関心は経典研究に向けられ、符法や儀式を重んじる正一道は低く扱われる傾向があった。
この頃から道教の神像が多く描かれるようになる。そもそも道や神の姿は有無や生死を超越して具象化できないため、道教界は図像の制作に消極的な立場を採り、夜空の星々を神々と関連付けて崇拝の対象としていた。しかし、仏教界が仏像・仏画を用いて布教を展開したため、道教界においても神像制作の必要性が高まり、多くの神々が人間の姿として描かれるようになった。
宋代以前の天師の系譜は三国・南北朝・五代の戦乱期を経ていることもあり、史実と辻褄の合わない曖昧な箇所が多く見られる。天師の大半が九十歳以上の長寿であり、百歳に達している場合も多いことから、日本の漢学者の中には現実的でないとして系譜の正統性に疑問を呈する者もいる。
「書聖」として書道界で崇敬されると共に、正一道の流れを汲む道士として符水法などの修練に励んだ。
唐朝を太平に導いた皇帝であると共に道士でもあり、道教音楽の制作や道蔵の編纂事業などに関与した。
若い頃から道士として修練に励んで養った道教精神を詩に昇華させ、「詩仙」として崇敬されている。
奈良県明日香村のキトラ古墳の石室には道教天文学の成果である世界最古の星図が描かれている。
代 | 姓名 | 生没年 | 在位年 |
---|---|---|---|
4 | 張盛 | ?- (307-313) |
216- (307-313) |
5 | 張昭成 | ?- (335-342) |
(307-313)- (335-342) |
6 | 張椒 | 不明 | |
7 | 張回 | ||
8 | 張迥 | ||
9 | 張符 | ||
10 | 張子祥 | ||
11 | 張通玄 | ||
12 | 張恒 | ||
13 | 張光 | ||
14 | 張慈 | ||
15 | 張高 | ||
16 | 張応韶 | ||
17 | 張頤 | ||
18 | 張士元 | ||
19 | 張脩 | ||
20 | 張諶 | ||
21 | 張秉一 | ||
22 | 張善 | ||
23 | 張季文 |
宋代の皇帝は自らの支配を正当化するため、神人降臨や天書などの道教の瑞兆を頻繁に利用した。符法や儀式を重んじる正一道は、彼らの政治的要求に巧みに応えて皇室との繋がりを強めるようになった。唐代に倣って道教が国教に位置付けられ、道蔵の編纂が本格化し、信仰心の篤い皇帝も多かった。特に徽宗皇帝は第三十代天師の霊威に感銘を受け、龍虎山の宮廟修繕を支援し、皇室の祭祀に道教儀式を組み込み、果てには自らを上帝の太子として「教主道君皇帝」の称号を用いるなど、天師が危機感を抱く程の傾倒ぶりは凄まじいものがあった。正一道は世人の注目を一気に集め、天師の系譜は整理されて史実に沿った詳細な記述がなされるようになる。民間では勧善懲悪を旨とする『太上感応篇』が世俗道徳の普及に広く用いられた。
並外れた霊威によって徽宗皇帝の信頼を獲得し、正一道が世人の注目を浴びるきっかけを作った。
第三十代天師の霊威に感銘を受け、正一道最大の支援者となった一方、極端な傾倒が宋朝滅亡を招いた。
道教の法術は日本で陰陽道として江戸時代まで用いられ、遺跡から大量の符が出土している。
茶を薬として服用する道教の養生法が臨済禅と共に日本へ伝来して茶道へと精神性が高められた。
代 | 姓名 | 生没年 | 在位年 |
---|---|---|---|
24 | 張正随 | 不明 | |
25 | 張乾曜 | ||
26 | 張嗣宗 | ||
27 | 張象中 | ||
28 | 張敦復 | ||
29 | 張景端 | ||
30 | 張継先 | 1092-1127 | 1100-1127 |
31 | 張時脩 | 1080-1140 | 1127-1140 |
32 | 張守真 | ?-1176 | 1140-1172 |
33 | 張景淵 | ?-1180 | 1172-1180 |
34 | 張慶先 | ?-1209 | 1201-1209 |
35 | 張可大 | 1217-1262 | 1230-1262 |
元代の皇帝はチベット仏教を信仰していたこともあり、中国の伝統的価値観に対して極めて冷酷な態度で接した。道士は僧侶として出家を強いられ、『老子』以外の経典が偽経とされ、道蔵が焼かれたことで道教経典の大半が失われた。一方で天師に対しては手厚い待遇で接したものの、正一道を中心とした道教界の統制を目的とした懐柔策に過ぎなかった。
『老子』以外を偽経として道蔵を燃やし、古い時代の道教経典の大部分が失われた。
太極図の一種である観音法門由来の三つ巴の家紋が日本の武家で用いられ始めた。
代 | 姓名 | 生没年 | 在位年 |
---|---|---|---|
36 | 張宗演 | 1244-1291 | 1262-1291 |
37 | 張与棣 | 1269-1294 | 1291-1294 |
38 | 張与材 | 1275-1316 | 1294-1316 |
39 | 張嗣成 | ?-1344 | 1316-1344 |
40 | 張嗣徳 | ?-1352 | 1344-1352 |
41 | 張正言 | 1325-1359 | 1352-1359 |
明朝の創始者である太祖朱元璋は、白蓮教の出身という宗教的素地を有していたこともあって正一道との接触が多く、即位後も篤い信仰心を示し、道教の瑞兆を利用して自らの支配を正当化した。道教が国教に位置付けられ、宮廷儀礼の多くが道教儀式に取って代わり、道教を掌る官職が設けられ、元代に失われた道蔵の再編が行われた。正一道教団に道教界を統括する地位が与えられ、歴代天師には公爵・伯爵の位に加えて多大な賞賜と封号が授与され、皇族との間で婚姻関係が結ばれた。正一道の威光は海外にも伝わり、琉球国王の尚巴志が第四十五代天師に正一法籙の伝授を求め、道蔵が日本の天皇家に伝えられ、現在も宮内庁書陵部に保管されている。
正一道は国家体制に組み込まれ、皇帝からの優遇を受ける一方で統制にも甘んじなくてはならなかった。天師の継承・道士の認可・廟宇の新造や改築など宗教活動のあらゆる側面で皇帝の認可が必要とされ、天師は定期的に皇帝に拝謁することが義務とされた。
この時代の商業経済の発達が道教の在り方に大きな変化をもたらした。現世の利益を求める人心の高まりと欲求の多様化に応えて神仙の体系や儀式が乱立し、道士たちは自己の修練や経典の研鑽よりも実利を重視するようになり、現世利益の祈祷をし、房中術による不老長寿を説き、精力増長のための薬を勧め、易・風水・手相・人相・姓名判断などの占いを大いに行い、戯曲や小説では道教の神霊や道士が頻繁に描かれた。道教の世俗化が道教思想の普及に貢献した一方、道法が欲望実現の手段とされて腐敗や堕落を招いた。
弘治帝の張皇后に正一法籙を伝授した。明朝の正一道と中国皇室との関係は極めて密接であった。
『水滸伝』で活躍する道士。道教の世俗化により、小説や戯曲で道教の神霊や道士の描写が多くなった。
琉球王国を統一した尚巴志は第四十五代天師に正一法籙の伝授を求め、道教を国家の礎とした。
正一道教団の懺悔の場である靖室が仏教と共に日本へ伝来して床の間へと発展した。
代 | 姓名 | 生没年 | 在位年 |
---|---|---|---|
42 | 張正常 | 1335-1378 | 1359(襲職) 1368(襲爵)-1378 |
43 | 張宇初 | 1361-1410 | 1377(襲職) 1380(襲爵)-1410 |
44 | 張宇清 | 1364-1427 | 1410-1427 |
45 | 張懋丞 | 1387-1445 | 1427-1445 |
46 | 張元吉 | 1435-1477 | 1445-1470 |
47 | 張玄慶 | 1463-1509 | 1472-1501 |
48 | 張諺頨 | 1490-1560 | 1501-1549 |
49 | 張永緒 | 1539-1565 | 1549-1565 |
50 | 張国祥 | ?-1611 | 1566(襲職) 1577(襲爵)-1611 |
51 | 張顕祖 | 1582-1661 | 1614-1630(在職) 1625-1636(在爵) |
清代の皇帝は満州族で、チベット仏教黄帽派を信仰していたこともあり、道教に対して冷淡な態度で接した。行き過ぎた道教信仰が明朝没落の原因とされ、皇帝が代替わりするにつれて天師が宮廷に召されることが次第に少なくなり、歴代天師への位・賞賜・封号の授与は簡素化され、宮廷儀礼から道教儀式が撤廃された。皇帝からの支援が絶たれた正一道教団は、教団運営のために田畑を質に入れ、朝廷から借金をする程に困窮した。一方、儒教・仏教・道教の三教合一を唱える出家主義の道教教団である全真道と中国禅の主流であった臨済宗は、真摯に自己の鍛錬を追求する知識人による支援と仏教に対して寛大であった時流に合わせて勢力を拡大した。
明朝から清朝にかけての道教の世界観を色濃く反映する『聊斎志異』は、志怪小説の最高峰と評される。
ロンドン伝道協会のプロテスタント宣教師。龍虎山付近に教会を建てたことで正一道と接触を持った。
日本の昔話には道教の影響を受けたものが多く、江戸時代に広く民間へ普及した。
五〜六世紀以降に日本へ伝えられた道教医学は、漢方医学として江戸時代までの医学の主流であった。
代 | 姓名 | 生没年 | 在位年 |
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52 | 張応京 | ?-1651 | 1636-1651 |
53 | 張洪任 | 1631-1667 | 1652-1667 |
54 | 張継宗 | 1666-1716 | 1679-1716 |
55 | 張錫麟 | 1699-1727 | 1716-1727 |
56 | 張遇隆 | 1727-1766 | 1742-1766 |
57 | 張存義 | 1752-1779 | 1766-1779 |
58 | 張起隆 | 1745-1799 | 1780-1799 |
59 | 張鈺 | 1770-1821 | 1800-1821 |
60 | 張培源 | 1813-1859 | 1829-1859 |
61 | 張仁晸 | 1840-1902 | 1859(襲職) 1862(襲爵)-1902 |
辛亥革命で最後の皇帝溥儀が退位し、正一道教団は皇帝という最大の支援者を失った。新政府のもとで天師に与えられていた特権は剥奪され、さらに欧米の実学主義を重んじ宗教を迷信とする風潮が高まり、ひいては道教そのものを禁止する動きが起こり、道教界は対応を迫られた。
この頃の台湾では正一道に基づいた独自の道教文化が形成されていたが、日清戦争の勝利によって台湾に進出していた日本は、皇民化政策によって生活のあらゆる側面で台湾人を日本人化しようとした。氏名を日本式に改めさせ、日本語を話すよう強制し、さらに宗教信仰を国家神道によって統制する政策を進めていった。台湾各地に神社が建設され、道教の宮廟が徹底的に破壊・接収され、教団の財産が没収され、「送神昇天」などと称して神像が撤去されて燃やされた。
袁世凱以後の軍閥の乱立と相次ぐ大戦の最中、天師は龍虎山を何とか守り抜いたものの、戦後、宗教をアヘンと見なす共産主義を国是とする中国共産党の支配体制が確立する中、第六十三代天師は台湾へ移住し、道教教団の復興と組織化、道教の国際化に取り組んだ。以後の正一道の道統は台湾へ移り今に至る。
現在、中国本土では中国共産党の一党独裁のもと、全ての宗教団体は党の公認無しに活動は認められず、宗教上のあらゆる場面で党への愛と忠誠を示すことが求められ、宗教関係の書籍は宗教局による検閲を通過しなければ出版・流通が認められない。道教は党公認の宗教として認められているものの、党が認める範囲内の活動しかできず、経典の字句が至る所で「反共」「不穏当」「迷信」だとされ、共産主義的価値観に沿うように抹消・改ざんされている。
一方、台湾では民主主義政策のもとで信教の自由と多様性が重視され、各宗教団体の活動が活発である。第六十四代天師が政府からの支援金を拒否したことで政治と宗教との癒着が解消された。台湾道教界は次世代への信仰の継承、拝金主義・商業主義による教団の堕落、フェミニズム・LGBTなどの価値観と性的指向の多様化など、多くの課題に取り組むことが求められている。
西洋実学主義の到来によって道教界を取り巻く環境が悪化する中、全国的道教団体の設立を試みた。
宗教を敵視する中国共産党の支配を逃れ、正一道の道統を台湾へ移した。
「中国嗣漢道教協会」を設立して台湾道教界を結束させ、海外の道教界との交流を積極的に行った。
日本統治下の台湾で道教信仰を弾圧し、各地に神社を建設して台湾人に天皇崇拝を強制した。
代 | 姓名 | 生没年 | 在位年 |
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62 | 張元旭 | 1862-1925 | 1902-1925(在職) 1904-1912, 1916(在爵) |
63 | 張恩溥 | 1894-1969 | 1924-1969 |
64 | 張源先 | 1931-2008 | 1970-2008 |