正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

38.張与材

三十八代天師の諱は与材、字は国梁、号は広微子、又の号は薇山、張宗演の次男、張与棣の弟である。元の世祖至元十一年十二月四日(1275年1月2日)に生まれた。仁に厚い人となりで、詩文の美しさと素晴らしさは際立っていた。至元三十一年(1294)に教団を継いだ。元の成宗は龍虎山に使者を送り、天師に冠・服・圭珮を賜い、道教を掌るよう命じ、宮廷に召した。

翌年(1295)、元貞と改元された時、天師は大明殿で帝に謁見した。二月、斎醮を延春閣で営ませ、玉圭・宝冠・法服・絹織物を賜わった。三月に徐知証・徐知諤を封神し、天に奏上して彼らに封号を加え、徐知証は「九天金闕明道達徳大仙顕霊溥済真人」、夫人の許氏は「順助仁恵仙妃」とし、徐知諤は「九天玉闕宣化扶教上仙昭霊溥済真人」、夫人の陶氏は「善助慈懿仙妃」とした。

元貞二年(1296)正月、帝は天師に封号を授けて「太素凝神広道真人」とし、江南の道教を掌るよう命じた。天師の母には「玄真妙応仙姑」の封号を授けた。また、詔を出し、張天師が度牒を発行して道士を育成することを認め、道法を保護するために宮観の賦役を免除した。

元の成宗大徳二年(1298)に海鹽と鹽官で高潮が発生し、波は海岸を百里に渡って浸食し、その被害は街にまで及ぼうとしていた。報告を受けた帝は、かつて三十五代天師が銭搪潮の決壊を鎮めたことから、今回も天師に鎮めてもらうのが適切だろうと考えた。天師は先に弟子を派遣し、鉄の符を浜辺の損壊した場所に投げ込ませると、符は三回水中から躍り出て、雷電が止め処なく打ち付け、魚の首に亀の体、長さ丈余りの物の怪がバラバラになって水辺で死んでいた。その後、天師は馬車で馳せ参じて杭州に赴き、佑聖観で斎醮を営み、堤防を作り、祖師正一真君殿を建てて災いを鎮めた。

同年に龍虎山上清宮で出火したので、帝は詔を出して再建させ、年を越した後に完成し、「大上清正一万寿宮」と名付けられた。

大徳五年(1301)に帝は再び天師を宮廷に召した。都は干ばつに見舞われており、大臣や高官から雨乞いの儀式を行うよう頼まれた。天師は、「大臣殿の民を思う心が天を動かし、雨を降らせることでしょう。」と言うと、翌日に雨が降った。その後、帝の避暑地に赴いて幄殿で謁見すると、帝は殿中で宴席を賜った。六月に帝は寿寧宮で斎醮を営むよう命じ、さらに延春閣で斎醮を七日間営むよう命じ、帝が親しく参列し、儀式が終わると褒美を与えた。冬になると暖冬となり、民の生活が苦しくなった。帝は、「暖冬で雪が降らないのでは、民が安心して暮らせるはずがない。」と言い、雪が降るよう祈祷するよう命じたところ、夜になって雪が尺余りも降った。帝は大いに喜び、臣下に命じて酒を賜い、「そなたがこれほどまで天に通じるとは!」と言った。時の文人である貢師泰は、詩を作って天師の功績を称えた。

大徳六年(1302)に天師は龍虎山へ帰ることになった。帝は柳林行宮に赴き、張天師が龍虎山を守るよう詔を出し、褒美を弟子に至るまで重ねて厚く賜った。四月に龍虎台の幄殿で別れる際、帝は褒美を重ねて賜り、箱入りの香を道中の名山・宮観で祈祷に使うよう贈り、二品の銀印を授けた。大臣と高官たちは宴会を開いて別れを惜しんだ。天師は龍虎山に帰ると、上清正一万寿宮で斎醮を営んだ。

大徳八年(1304)、帝は天師の高潮を鎮めた功を称えるため、封号を加えて「正一教主」とし、三山の符籙を掌るよう命じた。さらに三十六代天師を真君とし、上清正一万寿宮のための額を賜った。

大徳九年(1305)、蘇州崇明県の西の防波堤が崩れ、民が天師に助けを求めたので、弟子を派遣して処置させた。しばらくすると、数百羽の白い鶴が群れになって浜辺を飛び、夜になると神々しい光が空を照らしているのが見え、民は夢の中で神が防波堤を直しているのを見た。翌日になると防波堤は直っており、民は安心した。

元の武宗至大元年(1308)三月、帝は天師を宮廷に召して宝冠・金色の服を賜い、封号を加えて「金紫光禄大夫」「留国公」とし、金印を賜った。二代嗣師・三代系師・三十代天師を真君とし、母の周氏を「玄真妙応淵徳真人」とした。興聖宮の皇太后や東宮の弟(仁宗)も賞賜を特に厚く贈った。この年の夏は雨が多く、大臣と高官が礼部尚書の王約を派遣して天師に祈祷を頼むと、三日後に空が晴れた。天師が龍虎山に帰る時、人々は歓声を上げて見送った。

至大三年(1310)に天師は息子の張嗣成と共に帝に謁見した。

至大四年(1311)二月に母の周氏が亡くなった。三月に元の仁宗(1311−1320)が即位した。帝は天師を宮廷に召して嘉禧殿で会い、詔を出し、「私は天師の道が由緒正しく継承され、他に比類する者が無いことを喜ばしく思う。」と言い、宝冠と金服を賜い、一品の銀印を授けた。

元の仁宗皇慶二年(1313)四月に帝は龍虎山に使者を送り、「去年の冬は雪が降らず、今年は雨が降らないから田植えもできない。私は民が苦しんでいるのを見るに堪えない。天師に何とかしてもらえないだろうか?」と頼むと、天師は上清宮で祈祷を行い、たちまち雨を降らせ、風を吹かせ雷をもたらすよう天に檄を送り、遠くの郡県まで十分に潤わせた。使者からの報告を受けると帝は喜び感嘆した。同年に翰林侍講学士の元明善が帝の命を受けて『龍虎山志』三巻を編纂した。

天師は毎年の三元日に法籙を授け、粟を募り、義倉として貧者に施した。民から洪水・干ばつ・物の怪・流行り病の知らせを受けると全て祈祷して鎮め、倦むことが無かった。

以前、天師は都から帰る途上、信州の南池を通った時、池のカエルが春から夏の交尾で激しく鳴いて民の寝食に差し障りが出ているとの知らせを受けた。そこで、朱で瓦に符を書いて池の中に投げ入れ、「カエルよ!静かにしろ。」と戒めると、以後、池は静かになった。

延裕元年(1314)、帝は母の周氏に「玄真妙応淵徳慈濟玄君」の封号を追贈した。延裕二年(1315)秋に天師は弟子と岩窟を遍歴して合間に詩や絵を書いた。全てに寓意や戒めを含んでいたが、人々はその意を計りかねた。大晦日の夜には自身の寿を賛して「東風吹雪」の句を書いた。

年が明け、延裕三年(1316)正月十一日の雪の日に辞世の頌を詠んで羽化した。四十三歳の時であり、二十三年に渡る在位であった。帝は金谿の鳴陽に葬るよう勅令を出し、祠を建てて玄都観とした。子の張嗣成が教団を継いだ。

帝は張嗣成を宮廷に召して詔を出し、お抱えの書家に天師の遺影を描かせて翰林学士の張孟頫に賛を書くよう命じた。

天師は詩文に長けており、書は並外れて精彩で、世の人の及ぶものではなかった。大字には気風があり、草書もまた素晴らしかった。陝西の重陽宮に天師の大書が刻まれた「天下祖庭」の碑がある。芸術の士は毎日のように天師の書を見るため門前に集った。

天師は竹と龍を描くのに長けていた。龍を描くと変化すること計り知れず、もはや単なる紙の上の絵ではなかった。そのため、龍の絵を求める者が全国から幾度となく雲集した。晩年はひたすら修行に励んでいたため、筆を執ることが少なくなったが、絹に龍を描くよう求められた時、「龍の絵よ来たれ!」と叫ぶと、程無くしてたちまち龍が絹の上に飛んできて絵になった。天師が羽化した時、人々は口々に「龍の絵が飛び去った。」と言った。時の文人である銭惟善は天師の『昇龍図』に詩を書いた。現存する天師の龍の絵として『霖雨図』がある。

天師は数多くの宮観を巡り歩き、交遊も幅広かった。度々、道友のために『玉清無極総真文昌大洞仙経註』序・『玄天十子図』序・『道徳玄経玄旨』序・『道徳真経集義大旨』跋・『啓聖嘉慶図』序・『周易参同契発揮』序などの序や跋を書いた。宮観のために『集仙宮東岳行祠記』・『玉芝祠記』などの文を撰び、『震霊方丈贈玉虚宗師』などの詩文を代書し、『洞霄図志』の題名などを書いた。