正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

45.張懋丞

四十五代天師の諱は懋丞、字は文開、号は九陽、又の号は澹然、張正常の第三子である張宇珵の次男、張宇初と張宇清の甥である。張宇珵の容姿は玉のように清らかで美しく、仁に厚く、人の苦しみを我が事として憂う人となりであった。洪武帝は即位間もなく張宇珵の評判を聞き、四十三代天師と共に宮廷に招いた。張宇珵の受け答えが帝の意に適ったので、帝は喜んで金糸の絹織物を賜い、劉基の姪である劉氏を娶るよう命じた。彼女が張懋丞の母である。

洪武十九年(1386)暮れの宴会の時、張宇珵が中庭に座っていると、突然「重陽子」と名乗る古風な風貌の道士が会いに来て、菊の花を一本渡し、「どうかこちらに六十年仮住まいさせてもらいたい。」と言い終わると、たちまち姿を消した。張宇珵は初め不思議に思ったが、後でそれが重陽真人であると分かった。翌年(1387)九月九日に張懋丞が生まれた。この時、三日間菊の香りが部屋に満ちて紫の雲が家を覆い、その後消えて無くなった。四十三代天師は、張懋丞が九月九日の重陽の節句に生まれたことを瑞兆として「九陽」の号を与えた。張懋丞が四歳になって初めて禹歩をした時に雷がゴロゴロ鳴った。家族は偶然だろうと思い、もう一度禹歩をさせると雷が激しく鳴った。張懋丞は成長すると優れた才知を発揮し、儒学書や道法を学び、毎日のように多くを暗記し、文章は豪放で人々を驚嘆させた。書画にも長け、董其昌・米芾の書法を受け継ぎながらも不思議なことに、書の中から天地山川の幽玄の気が発せられ、人々の意表を超えたものであった。山水画は米芾と米友仁の画法を受け継ぎ、清らかで優雅に描き、また、枯木や竹・石を描くことに長けていた。文章・書画共に当代の傑作といわれ『擷蘭図』が伝わる。欲がなく物事にとらわれないという意味を込めて「澹然」とも号した。

宣徳二年(1427)に四十四代天師の遺言により張懋丞が教団を継いだ。九月に天師の代替わりを報告するために宮廷に赴くと、帝は便殿で宴席を賜った。帝が四十四代天師の羽化について尋ねたので、天師はありのままに報告すると、帝はしばらく嘆き悲しみ、使者を派遣して葬儀を執り行わせ、天師に馬を支給して龍虎山へ帰らせた。

宣徳三年(1428)、帝は天師を宮廷に召して太上延禧籙を伝授し、宮廷で延禧斎醮を営むよう命じた。儀式の後、帝は天師に宝冠・剣・象牙の笏・刺繍がされた衣を賜った。天師は風雲雷雨壇で儀式を執り行った。四月、帝に随伴して太廟の祭祀に参列し、儀式の後、帝は天師に封号を加えて「正一嗣教崇脩至道葆素演法真人」とし、道教を掌るよう命じた。同年に天師は龍虎山に帰った。七月に上清宮で報恩斎醮を営んだ。

宣徳四年(1429)春、天師は帝の誕生日を祝うために宮廷へ赴き、東鎮壇で儀式を執り行い、仁智殿で斎醮を営んだ。儀式の後、帝は天師に褒美を与えた。三月一日に帝が西宮で天師と会って語り合い、大いに喜んだ。天師は操克弘・龔継宗・顔福淵・黄嘉祐ら上清宮の優秀な弟子を道録職として帝に推薦し、帝はこれを認め、龍虎山に使者を派遣して彼らを起用した。四月に天師は玄天祠で吉祥斎醮を営み、儀式の後、帝は天師に白金と紙幣を賜った。天師は帝に随伴して太廟の祭祀に参列した後、龍虎山へ帰った。閏十二月(1430)、帝は天師の先妻に「柔恵貞静玄君」の封号を贈った。

宣徳六年(1431)、天師は帝に新年の挨拶をするために宮廷へ赴いた。帝は星辰壇で儀式を執り行い、宮廷の皇壇で斎醮を営むよう命じ、食物・衣服・車馬などの物品を準備した。帝は天師を斎宮に召し、七宝の炉・黄金一鎰・刺繍がされた衣を賜った。四月、天師は帝に随伴して太廟の祭祀に参列し、儀式の後、帝は中官に命じて天師を龍虎山へ護送させた。

宣徳七年(1432)七月の中元の日に、天師は周思得『上清霊宝済度大成金書』の序を書いた。

宣徳八年(1433)冬、帝は天師を宮廷に召し、霊済宮で斎醮を営むよう命じた。宣徳九年(1434)三月、皇太子が病気になったので、帝は天師を宮廷に召した。天師が皇太子に符を献上して服用させると病気はたちまち治ったので、帝は大いに喜び、冠・剣・衣・舃を賜った。また、風雲雷雨壇で儀式を執り行い、保安斎醮を大徳観で営むよう命じ、儀式の後、天師に白金と紙幣を賜い、道士百人に度牒を与えた。天師が暇乞いすると、帝は引き留めて幾度も褒美を与え、龍虎山に絶えず使者を派遣した。皇太后は天師に白金・紙幣を賜った。五月、帝は天師を宮廷の庭園に召して『招隠歌』を賜った後、役人に護送を命じて龍虎山へ帰らせた。さらに帝は使者を派遣し、天師に修練に励み教団を繁栄させるよう命じた。

宣徳十年(1435)一月に帝が崩御して正統帝が七歳で即位した。十月の冬、天師は帝の即位を祝うために宮廷へ赴いて真武廟に滞在した。宣徳帝の命により朝天宮の北東に建設されていた広大な規模の天師府が完成した。帝は礼部に命じて使者を派遣し、天師を天師府に迎え入れて住まわせ、食料を用意した。さらに、朝天宮で昇真大斎を営むよう命じ、儀式の後、白金と紙幣を賜った。

正統元年(1436)一月一日、帝は奉天門で天師に宴席を賜った。十一日、帝は天師に風雲雷雨壇で儀式を執り行うよう命じた。十二日、帝は孔子の子孫と共に天師を召し、奉天門で宴席を賜い、各々に黄金十両・紙幣四千貫・金の刺繍がされた衣・朱の靴・帽子を賜い彼らを称えた。同月、帝は天師に太上延禧籙を伝授し、朝天宮で金籙延禧斎醮を営むよう命じ、儀式の後、賞賜を賜った。

正統二年(1437)十月の冬、帝は再び天師を宮廷に召して朝天宮で金籙延禧斎醮を営むよう命じ、儀式の後、金の絹織物を賜った。さらに大徳観で斎醮を営むよう命じ、儀式の後、賞賜を贈った。

正統三年(1438)一月の春、天師は東鎮壇で儀式を執り行った。二月、皇太后の誕生日のために天師は朝天宮で斎醮を営み、儀式の後、帝は天師に白金と紙幣を賜い、妻の董氏に「温静柔順玄君」の封号を授けた。三月、天師は宮廷の玄天祠で玄武の金像を祀り、儀式の後、帝は天師に珍しい果物を賜い、相伝の印・剣を見せるよう命じた。帝は印・剣をしばらく撫でて感嘆し、「神々の霊威がこのような物であったとは!」と言い、五千貫の紙幣を賜い、宴席と賞賜を贈った後に龍虎山へ帰らせた。

同年十一月、琉球国王の尚巴志が正一法籙の伝授を求めたので、天師がこれに応じると、琉球国の丞相である懐機を通じて感謝の意を表する書簡が送られた。翌年(1439)に尚巴志が亡くなったので、懐機が天師に書簡を送ってその旨を伝え、新国王にも法籙を伝授するよう求めた。

正統五年(1440)冬、帝は天師を宮廷に召し、大徳観で延禧斎醮を営むよう命じた。正統六年(1441)正月、帝は天師に東鎮壇で儀式を執り行うよう命じた。二月、帝は天師に朝天宮で吉祥斎醮を営むよう命じ、儀式の後、手厚く賞賜を賜い、道士五百人に度牒を与えた。

正統七年(1442)冬、帝は天師を宮廷に召し、文華殿で宴席を賜った。正統八年(1443)春、帝は天師に星辰壇で儀式を執り行い、朝天宮で吉祥斎醮を営むよう命じた。正統九年(1444)冬、帝は天師を宮廷に召し、朝天宮で延禧斎醮を営むよう命じた。

宣徳帝・正統帝の時代に、天師は帝に随伴して太廟の祭祀に二回参列し、諸壇で儀式を七回執り行い、宮廷で十一回斎醮を営み、二回延禧籙を伝授した。

正統十年(1445)一月、天師は帝に、「私は国の恩に浴すること十八年に渡り、二代に渡って帝の寵愛を受けていること、誠に千歳一遇の機会であり、少しもこの恩に報いられないことを恥ずかしく思っております。私はもう年老いており、長男の張留綱は早くに亡くなっております。孫の張元吉は十一歳で生まれつき聡明ですから、願わくは私の跡を継がせて帝の恩に報いたく思います。」と暇乞いをした。帝は引き留めたものの、天師が再三に渡り懇願したので認めることにした。天師はその日の内に龍虎山へ帰った。

天師は七日間、家に一族を集めて酒食を共にし、孫の張元吉を召して印・剣を託し、「この相伝の印・剣は国家の拠り所である。私がこの世を去った後、お前が教団を継ぎなさい。お前のことは既に帝に伝えているから、道法を大いに用いて帝に仕えなさい。励むのだぞ!」と言い、端座して羽化した。五十九歳の時であり、十九年に渡る在位であった。

弟子の周応瑜・李文瑛が宮廷に赴いて帝に訃報を伝えると、帝は哀悼の意を示し、礼部の郎中を派遣して葬儀を執り行い、工部の主事に命じて馬鞍山に墓を作らせ、南極観を建てて祀り、人々はこれを誉とした。

天師は数々の神威を現した。天師が山道を通った時、従者が、この先の木が倒れて道を塞いでいるので首を低くしてくぐる必要があり、馬に乗って通るのは無理だと言い、迂回するよう勧めたが、天師は、「私には民の苦しみを除く任務がある。正しき者が邪な道を行く必要はない。」と言うと、激しい風が吹いて木は取り除かれていた。天師が都に赴いていた時、流行り病で苦しむ民を符によって治したので、求める者が万を超え、全員に書いてあげることができなくなった。そこで天師は符を井戸に投げ込むと、人々は井戸が枯れるほど争うように汲み、飲んだ者は回復した。また、天師が華蓋山に遊んだ時、美しい光が度々生じ、夜空を眩く照らしていたという。