五十八代天師の諱は起隆、字は紹武、号は錦崖、又の号は体山、五十六代天師の代理を務めた張昭麟の子であり、王氏が生みの母である。乾隆十年(1745)に生まれた。豊かな顎に美しい髭を生やし、容貌は武将のように威厳があり、物事に動じない智慧と厳粛な物腰により、周囲から畏敬の眼差しで見られていた。文章と詩に長けており、公卿との交友関係があった。文人の袁枚による『為錦崖真人題峴泉読易図』の詩にも天師との交友が記されている。道の教えに精通し、祈祷すれば神々が必ず応じた。九歳になり太学に入った。乾隆三十六年(1771)に都に遊び、乾隆三十九年(1774)に四庫全書館での職務が評価され、河南や開封の役職を歴任した。
乾隆四十四年(1779)、五十七代天師の遺言により、帝は張起隆が天師の位と爵位を継ぐことを認めた。
乾隆四十五年(1780)八月に天師は帝に召されて都に行き、さらに北の熱河に赴き、乾隆帝の七十歳の誕生日を祝い、如意などを献上し、帝は『北斗延生真経』一部を賜った。十一日に帝と内廷で親しく話をして三日間花見を楽しんだ。帝は懇ろに暑い中遠方から赴いたことを労い、プーアル茶・避暑丸散・宮中の器物に消化の良い食べ物を毎日のように勧めた。十四日の晩に万樹園で花火見物を楽しんだ。
乾隆四十七年(1782)に帝は天師を宮廷に召して乾清宮で会った。翌年(1783)の元旦、帝は天師に皇室の道観である大高殿で神々に祈願するよう命じた。祈願が終わると、宮中で刺繍された老子の像とチベットの香を賜った。乾隆四十九年(1784)に帝が第六次の南巡を行い、天師は慣例により江蘇無錫で帝に貢物を献上し、帝は酒器などを賜り、さらに行在宮に召して消化の良い食べ物・絹織物四端・親筆の五百羅漢の絵巻物を賜った。
乾隆五十年(1785)に天師の系譜の修訂がなされた。
乾隆五十四年(1789)、帝は天師に今後は五年に一回宮廷に来るよう命じた。以後、帝は天師が宮廷に来るといつも喜び、絹織物やチベットの香など宮廷の珍品を賜った。天師の滞在中は多数世話係が常駐し、総督以上に相当する待遇であった。
乾隆五十五年(1790)に乾隆帝が八十歳の誕生日を迎え、天師に感謝の意を込めて封号を加え「通議大夫」とし、母の王氏と妻にも封号を授けた。同年、揚州市邵伯鎮の城隍神に封号を加えて「霊通伯」とした。
嘉慶元年(1796)に四川・陝西・河南・湖北などで白蓮教徒の乱が起きた。
嘉慶三年(1798)に天師は帝に召されて都に赴く途中、蘇州で病に罹り引き返した。嘉慶三年(1799)正月十六日に羽化した。五十五歳の時であり、二十年に渡る在位であった。正一観の右後ろ側に葬られた。