四十四代天師の諱は宇清、字は彦璣、号は西壁、張正常の次男、張宇初の弟である。張正常は夢の中で、壁魯真人が高い冠に朱の衣を着けて部屋に入ってきたのを見た。翌日に妻の包氏が張宇清を生んだ。これが「西壁」の号の由来である。生まれつき頭の回転が速く、非凡な。七歳の時から書を学び、詩や文章に長けていた。四十三代天師と共に四十二代天師を補佐した。四十二代天師は張宇清の働きぶりを評価し、「この子は後に必ずや教団を発展させる。」と言った。成長して道の教えや儒教・歴史・諸子百家を漏れ無く学んだ。四十二代天師が羽化して四十三代天師が教団を継ぐと、張宇清は天師を大いに補佐した。
永楽八年(1410)に張宇清が四十三代天師の遺言を受けて教団を継いだ。六月に帝に就任を報告するために都へ赴いたが、帝は北京に赴いており留守であった。十月に帝が帰京し、天師を宮廷に召して宴席を賜い、朝天宮で斎醮を営むよう命じ、天師に封号を加えて「正一嗣教清虚沖素光祖演道真人」とし、道教を掌るよう命じた。また、金の冠・深紅色の服・象牙の笏・帯玉を賜った。
永楽十一年(1413)七月、帝は龍虎山に使者を派遣して『大岳太和山円光図』と榔梅百個を賜った。八月、帝は天師に武当山の監督をさせるための道士を選ばせた。九月、帝は再び龍虎山に使者を派遣して大上清宮で金籙大斎を七日間営むよう命じ、龍の瑞兆が現れた。帝は天師に金銭を賜い、市の魚を放流して「放生池」と名付け、龍虎山周辺での漁や狩りを禁止した。
永楽十三年(1415)に帝は大上清宮を修復し、真懿観を建て、堤防と浮橋を作るよう命じた。
永楽十五年(1417)、帝は南京郊外で天地を祀る際、天師に西鎮壇で祭祀を執り行うよう命じた。十一月、帝は天師に霊済宮で金籙大斎を営み、天に感謝の意を伝え、仙人の洪恩真君を封神するよう命じた。儀式の最中に丸い光が空を照らし、美しい雲が帳に満ち、鳳凰と鶴が飛んで舞い、霊験あらたかであった。祀官が帝に報告し、帝は天師を褒め称えて金を賜った。
永楽十六年(1418)二月、帝は天師を宮廷に召し、道の教えについて尋ねた後、冠服と絹織物、銭十万と白銀百鎰を賜った。三月、帝は天師に太和山の玄武の金像を祀るよう命じた。五月、帝は天師に浙江の潮の害を鎮めるよう命じたので、天師は弟子の黄端友を派遣して鉄の符を海に放り込ませた。すると波が勢い良く湧き上がり、人と馬が叫んで鳴く声が聞こえた。こうして潮は引いて災いは収まった。役人から報告を受けた帝は使者を派遣し、天師を褒め称えて褒美を賜った。
永楽十七年(1419)一月、天師は帝に新年の挨拶をするために宮廷へ赴き、帝は霊済宮で斎醮を営むよう命じた。さらに使者を派遣して妻の孫氏に「端静貞淑妙恵玄君」の封号を授けた。二月十五日、天師は霊済宮で七日間に渡る斎醮を営み、浙江・湖広・江西・福建の道士たちと七千余りの参列者が集まった。儀式の最中にどこからともなく仙人が現れ、白い鶴が道壇に降り、辺りは美しい雲で満ち溢れた。儀式の後、帝は天師に多額の紙幣と白金百鎰を賜った。五月、帝は天師に銭二万と珍品・珍味・海鮮・異国の果物を賜った。
永楽十八年(1420)、帝は天師を宮廷に召し、道士千八百人を集めて玉籙大斎を営むよう命じ、大いに吉兆があったので、帝は天師を褒め称えた。十月に都の霊済宮で普度斎醮を営むよう命じた。
永楽十九年(1421)、北京の宮殿が完成したので都を移した。一月一日に帝は天師に星辰壇で祭祀を執り行い、保安斎を七日間営むよう命じ、冠服・笏・帯玉・錦織物・貂の革袋を賜った。
永楽二十年(1422)、帝は北伐の後に帰京し、天師に祈謝大斎を営むよう命じた。儀式の最中に美しい光と靄の瑞兆が現れたので、帝は天師に褒美を賜い、特に褒め称えた。
永楽二十二年(1424)、帝は天師に太和山で斎醮を営むよう命じた。儀式の最中に仙人が多数現れ、丸い光が空を照らした。永楽帝の時代におおよそ九回の斎醮が営まれ、帝はしばしば褒美を賜った。
洪熙帝(1424‐1425在位)が即位したので、天師は帝の即位を祝うために都に赴いた。帝は天師に大斎を営むよう命じた。儀式の最中に瑞兆があったので、帝は天師を褒め称えて金玉の法印を賜い、さらに紋が入った金糸の衣・鶴の羽で作った衣・貂の革袋・笏・帯玉を賜い、弟子たちに各々衣服と飲食を与えた。
宣徳帝(1425‐1435在位)が即位し、翌年(1426)に宣徳へ改元された。二月、天師は帝の誕生日を祝うために宮廷へ赴き、帝は内殿で宴席を賜い、さらに冠服・笏・帯玉を賜い、手厚い待遇でもてなした。四月に帝は天師に封号を加える旨の勅令を出し、六月に「正一嗣教清虚沖素光祖演道崇謙守静洞玄大真人」とし、天下の道教を掌るよう命じた。
宣徳二年(1427)、帝は天師を宮廷に召し、これまで通りに褒美を賜い、教団関係者の賦役を免除するよう役人に命じた。五月、天師は老齢を理由とし、帝に三度暇乞いをして龍虎山へ帰った。中秋に天師は一族を集めて宴会を開き、たけなわの頃に嘆き憂い。「私は普段から祖天師の教えを仰ぎ、常に畏敬の念を抱いて生きてきたものの、帝の恩に十分報いることができなかった。」と言い、相伝の印・剣を跡継ぎである張懋丞に、「これが我が家に受け継がれてきた宝物である。私がこの世を去った後、お前がこれを継ぎなさい。」と詳しく告げ、頌を作り端座して八月十五日に羽化した。六十四歳の時であり、十八年に渡る在位であった。この日の夕方に雷が激しく鳴ったが、止んだ後に五色の鮮やかな虹が掛かり、山々を橋渡しし、しばらくして消えた。人々は皆、天師が天に昇るための通り道なのだと言った。張懋丞は弟子の徐嗣常と一緒に帝に報告し、帝は哀悼の意を示し、使者を派遣して葬儀を行わせて祭文を賜い、さらに使者を派遣して埋葬のための土地を選ばせ、北真観の右側に天師の爵位相応の陵墓を作らせた。
天師は在位期間中に四十三代天師の『道蔵』編纂の事業を引き継いだ。著書に『西壁文集』があり、『大岳太和山志』に疏文・詩文等がある。天師は詩文を四十三代天師から学んで一緒に唱和していた。山水画にも長じており、『思親慕道図』『牧牛図』が伝わる。