六十三代天師の諱は恩溥、字は鶴琴、号は瑞齢、譜名は道生、張元旭の長男、母は万氏である。清の光緒二十年(1894)九月五日(陽暦十月三日)に生まれた。道法・符籙に精通し、筆遣いが力強く、何枚符を書いても書体に揺らぎが見られなかった。天師の書を得た者は並々ならぬ霊験を得たため、多くの人が天師のもとに押しかけた。
民国八年(1919)、大日本帝国は台湾の皇民化政策の一環として道教の神像と位牌を没収し、民国十年(1921)、道教徒に神社神道または仏教への改宗を強制した。
民国十一年、(1922)、張恩溥は江西省の南昌に行き、江西省立法政専門学校で法律を学んだ。民国十三年(1924)に卒業し、同年に教団を継いだ。
民国十五年(1926)五月、武漢で日照りと大雨が繰り返し、頻繫に災害が発生した。天師は湖北督軍と直系軍閥の粛躍南の求めに応じ、百人余りの道士・法師と共に武漢で四十九日間に渡る盛大な斎醮を営み、神威は武漢三鎮に轟いた。これを聞いた軍閥の呉佩孚は部下に天師歓迎の準備をするよう命じ、天師に平和について尋ねた。
同年(1926)十二月、江西省国民党部第六十九次執行委員会が天師の称号を取り消し、天師の財産を没収して農民協会に帰すと決議した。国民党江西貴渓県党部は龍虎山に押し入って天師の書状を奪った。天師は先に九江に逃げ、上海に留まった後に再び北上した。
民国十六年(1927)、蘇州呉県臨時行政委員会の会議において、道教は鬼神崇拝を煽り、愚民を誘惑しており生産性が無いとし、道教教団や道士の存在を容認しないとする決議を行った。他宗教が認められているのに道教のみが禁じられたことに対して道教界は騒然となり、請願を行い抗議したため、当局はこの決議を見送った。四月、天師が南昌に所用で赴いた時、共産党人民自衛軍の交戦に巻き込まれ、教育庁長の程天放が捕虜となり、南昌市看守所に収監され、後に第五路軍に救出されて龍虎山に帰った。同年、大日本帝国は台湾の道教を禁止し、神像を破壊して燃やし、「送神昇天」などと称した。
民国十七年(1928)十月二日、中国全国の寺廟に対して内務部が「神祠存廃標準令」を発し、仏教・道教の廟宇を厳格に取り締まることが定められ、元始天尊・祖天師・呂祖・日月星辰・山川・土地・城隍など、老子以外の道教の神々を祀ることが禁じられた。道教界は重大な危機に瀕し、地方の豪農はこれに乗じて廟宇を荒らし回った。
民国二十一年(1931)二月、中華ソビエト共和国軍が龍虎山を攻撃し、天師府は太平天国の乱や国民政府によるもの以上の甚大な被害を受けた。天師は上海に逃げたが、二人の弟は封建主義・迷信の咎で殺され、廟は略奪の対象となり、多くの経典が燃やされた。天師は上海のフランス租界の梅蘭坊に逃れて約五年間過ごし、その間に上海・蘇州・杭州一帯で道の教えを広め、符を求め、籙を授かる者が非常に多かった。時のユダヤ人富豪のSilas Aaron Hardoonの子が悪魔に取り付かれて長い間治癒しなかったので、特別に天師に悪魔払いを求めた。また、彼が亡くなった際は天師が法事を執り行った。
天師は上海で多くの斎醮を執り行った。民国二十二年(1932)、上海大世界で三天羅天大醮を営み、民国二十四年(1934)、上海清涼寺に道壇を設け、僧侶の太虚法師と共に「全国祈雨消災大会」を執り行った。この期間に天師は蔣介石に謁見しており、蒋介石は客人の礼で天師に接した。言い伝えによると、蔣介石が人員を派遣して龍虎山を修復し、「嗣漢天師府」の名を回復させ、鷹潭から上清宮に至る道路の修繕を手掛けたという。
民国二十四年(1935)十二月十二日、天師は内政部に龍虎山から奪った天師の書状を返すよう求め、袁世凱の時に承認された正一真人の封号が有効であることを確認する旨の書簡を送った。内政部は行政院に諮って議論したが、法規に則り道教会を設立することしか認められなかった。翌年(1936)の夏、江西の共産党が粛清されたので、天師は難を逃れていた祖伝の重要な宝物と共に龍虎山に帰ることにした。
民国二十六年(1937)、抗日戦争が始まった。戦争の間、天師は庵に住み、その暮らしぶりは質素であった。人と接する時は和やかで、己に厳格で他人に寛大であり、善を行うことを好み、地元の善行の士と共に上海の鎮関門に孤児院を作った。寄付金以外にも毎年15トンの穀物を用意し、上海周辺の貧家の子女や孤児を救済した。
民国三十二年(1943)、蘇州で干ばつが発生し、天師は人々の求めに応じ、蘇州の玄妙観で道壇を設けて雨乞いの祈祷を執り行った。法会は三日間の予定であったが、二日目には天から長雨が降り注いだ。
民国三十四年(1945)春、大日本帝国軍が龍虎山に迫っていると聞き、天師は冷水郷に逃れた。大日本帝国軍は龍虎山の福地の神聖さと荘厳さを見て、跪き礼拝して去って行った。八月十五日に日本が降伏したので、龍虎山嗣漢天師府は抗日戦争の勝利を祝い、戦死者を追悼するため、太平羅天大醮を五日間に渡って挙行し、天師は道壇で親しく「開啓」・「上表」などの法事を執り行い、天師府の法官・法師及び道士たちが参加した。翌年(1946)には無錫と蘇州で抗日戦争の戦死者を称え、世界平和を祈祷する大醮を挙行した。
民国三十五年(1946)冬、天師は抗日戦争期に中断していた「中国道教会」の設立を上海で再開しようとしたが、当時の道教界の意見が割れたことに加え、国民政府が台湾に撤退したため、実現は果たせなかった。民国三十六年(1947)、天師は初めて台湾に赴き、台北法主公廟の求めに応じ、平安祈願と戦死者追悼の醮典を三日間執り行い、その後、各地を歴訪し、台中神岡朝清宮や台北新荘海山里での醮典、淡水行忠堂での礼斗など、道壇や宮廟の法事に参加し、滞在は五ヶ月に及んだ。
民国三十七年(1948)、「貴渓県龍虎山道教協会」が設立され、天師が常任理事長となった。
民国三十八年(1949)四月、中国共産党軍が龍虎山に迫ったので、天師は長男の張允賢・秘書の龔乾升・侍従の邱剣忠と共に下山し、金谿で三谿部隊のトラックに乗り、韶関・広州・マカオを経て香港に避難し、雲泉仙館に滞在した。五月、台湾で戒厳令が発令されて三十八年に渡る戒厳期が始まった。十二月、海軍総司令の協力を得て台湾に赴き、台北市大龍峒覚修宮に住み、「嗣漢張天師府駐台弁事処」を設立して天師としての活動を続けた。国民政府は道教を尊重し、奉祀官を務める孔子の子孫と同様に給付金を支給し、生活の便に供した。当初は月五百元であったが、以後、物価の上昇に伴い、民国四十七年(1958)に月三千元、民国五十五年(1966)に月五千元が支給された。
台湾への移住以後、天師は道教の振興に心血を注いだ。台湾の宮廟の多くは地方会に属し、運営に道士が関与するとは限らなかった。政府が寺廟管理の推進を期待していたことが天師の思惑と一致し、民国四十年(1951)、天師は「台湾省道教会」を設立し、首任理事長に就任し、刊行物によって道士教育の強化を図った。しばらくして、政府当局の寺廟管理推進策に効果が見られないことから、天師は道教会を脱退し、高雄県大樹郷に崇聖殿を建てて祖天師を祀り、台北に「天師府駐台弁公処」を設立して法職の伝授を図り、教務を発展させ、南北台湾の道壇を再編して教区を定めた。
民国四十三年(1954)、長男の張允賢が思いがけず亡くなり、天師は教団の相続に懸念を抱き、血脈の拡大を求めた。
民国四十六年(1957)、天師府駐台弁公処は「道教居士会」を併設し、台湾内外の道教研究者を招いて道学研究の拠点とした。民国五十三年(1964)夏、マレーシアの道教界の求めに応じ、クアラルンプール・スレンバン・ムラカ及びシンガポールを訪問し、道の教えを広め、法職を授け、多くの者が伝度を受けた。
当初、天師は上海に「中華民国道教会」の設立を志していたが実現されず、台湾では僅かに省・市の道教会が分散しているだけであった。しかし、全国規模の道教会が中国本土に設立される動きに対応するため、民国五十四年(1965)、天師は再び道教会の設立を内政部に申し立て、内政部はこれに同意した。その後、理事・監事の人員や全国各区域への人員配置の調整などが民国五十七年(1968)七月まで続き、ついに天師は「中華民国道教会」の設立を宣言した。地方の宮廟までが幅広く所属し、別に設けられた仏教会と共に寺廟の管理を担い、天師が第一理事長に選出された。
民国五十八年(1969)春、天師はフィリピンの道教界の求めに応じて伝度・授職に赴き、道の教えを広めた。台湾へ帰国後、長年の心労から癌を患い、十二月二十五日に台北市新北投の自宅で羽化した。新北市碧潭楽園後山の墓園に葬られた。七十六歳の時であり、四十六年に渡る在位であった。