正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

49.張永緒

四十九代天師の諱は永緒、字は允承、号は三陽、張諺頨の長男である。張諺頨は夢の中で甲冑を身に着けた武将から謁見を求められた。武将は名刺を持っており「三陽将軍」と名乗ったが、名刺を見ると「九」の字が三つ書いてあるだけで、姓名が書かれていなかった。そうして、たちまち大風が吹いて武将は消え去ってしまい、張諺頨は夢から覚めた。翌日、嘉靖十八年(1539)一月二十五日に張永緒が生まれた。経典に広く通じ、暇を見ては剣術を学び、家の外では剣を帯びて山や沢を渡り歩き、家の中では門を閉じて客人を謝絶し、出迎えることを好まず、世俗を軽んじているかのようであった。

嘉靖二十八年(1549)、張永緒は十一歳の時、四十八代天師と共に宮廷へ赴いた。都に到着すると、帝は太監を遣わして衣帯を賜った。翌日、帝は彼らを宮廷の庭園に召して身分に応じた褒美を与え、便殿で宴席を賜い、張永緒が天師の位を継ぐことを認め、封号を加えて「正一嗣教守玄養素遵範崇道大真人」とし、道教を掌るよう命じた。帝は天師がまだ幼いことを気にかけ、暫くの間は宮廷に召さないこととした。また、定国公の娘を娶るよう命じ、成国公と遂安伯に婚礼を取り計らうよう命じた。

嘉靖三十一年(1552)、帝は天師を宮廷に召し、宮廷の庭園で宴席を賜った。帝は使者を派遣し、天師に伯爵の朝服・祭服・常服を与えることを伝え、礼部と工部に命じて作らせた。

嘉靖三十二年(1553)春、天師は婚礼を無事に執り行ったことを帝に報告した。翌月、帝は天師を官吏に護送させて龍虎山へ帰らせ、今後、天師を宮廷へ召す際は、特別に多めに馬を支給して旅の便に供するよう駕部に命じた。

同年、四十八代天師が龍虎山で起きた火災事故の復旧を行う旨を帝に申し上げたので、帝は国庫から銀三百六十錠を拠出し、「正一」「静応」「祥符」の額を改めて賜った。

嘉靖三十四年(1555)、天師は遼王の朱憲櫛の求めに応じて、子孫の出生を祈願した。

嘉靖三十七年(1558)冬、帝は天師を宮廷に召して四十八代天師の様子を尋ねた。天師が、「私たち父子は帝の高く厚い恩に浴し、一家共々平穏な暮らしを送っております。しかしながら、父は気力共に段々と衰えており、常々私に、怠ることなく帝に仕え、一時もこの使命を忘れてはならないと諭しております。」と答えたので、帝は、「そなたの父が顔を見せなくなったのは、そういうことであったのか!」と言い、宴席を賜い龍虎山へ帰らせた。また、香山に神像を作り、万法宗壇の祭祀を執り行うよう命じた。この年、帝は役人に命じ、天師を召す際は早馬と早船を使うよう命じ、遅れを認めないと厳しく戒めた。

帝は再び天師を宮廷に召し、便殿で宴席を賜い、保国安民大醮を朝天宮で営むよう命じ、蟒衣・玉帯を賜った。翌年(1559)正月、帝が天師に龍虎山へ帰り父の面倒を見るよう命じたので、新年の大典礼が終わらない内に暇を告げて帰った。帝は護送の役人に、天師を遅れることなく送り届けるよう命じた。

嘉靖三十九年(1560)、龍虎山の三道観が落成した。この年、四十八代天師が羽化した。

嘉靖四十三年(1564)冬、帝は天師を宮廷に召し、西苑で道について尋ねた後、宴席を賜い、蟒衣・玉帯などを贈り、朝天宮で雪を乞う祈祷を行い、内殿で斎醮を営むよう命じた。

嘉靖四十四年(1565)元旦、帝は中官を派遣して天師を宮廷に召し、便殿で諸大臣と会わせた後に宴席を賜い、臣下に天師を首席とするよう命じた。天師は宮廷内で斎醮を営み、春の典礼を執り行った後、暇を告げて帰った。

船が厳陵瀬に差し掛かった所で、天師は驚いた様子で船の覆いを上げ、山々が夕日に染まっているのを四回振り返って見て、夕日が移ろいを示した頃に突然辞世の句を読み、周りの者が訝しむ中、船頭に船を早く進めるよう命じた。龍虎山に着くと程無くして羽化した。六月十一日、二十七歳の時であり、四十八代天師が夢に見た三つの「九」の字はそれを示していたのだ。十七年に渡る在位であった。

妻の徐氏が帝に訃報を届け、帝は哀悼の意を示し、四十八代天師の一つ下の伯爵位を弔恤として賜い、使者を派遣して葬儀を執り行い、獅子山に墓地を作り、南極観に祠を建てた。また、徐氏に「静和元君」の封号を授け、次の天師を愛育・教育し、張一家の面倒を見るよう命じ、龍虎山の優秀な道士四名を賛教・掌書・佐理外事に任命し、一族が互いに争うことが無いよう戒めた。帝の恩はこのように深く厚く、道の教えを守り伝え、宗風を末永いものとした。