三十七代天師の諱は与棣、字は国華、号は希微子、張宗演の長男である。物静かで言葉少ない人となりで、三教の奥義に通じ、多くの詩文を作った。成人して間もなく父と共に帝に謁見したが、帝は天師の温厚で明らかな人柄と、頭の回転の速さに、並々ならぬ者であるとしばしば感嘆した。至元二十八年(1291)に教団を継いだ。至元二十九年(1292)正月、帝は教団の継承を認めるために天師を宮廷へ召した。
天師が宮廷に赴くと、帝は座を賜い、大いに苦労をねぎらった。「体玄弘道広教真人」の法号を授け、江南の道教を掌るよう命じ、金の冠と法服を賜い、その後に帰らせた。
至元三十一年(1294)に成宗が即位し、天師を再び宮廷に召し、万歳山の円殿に斎醮を営むよう命じ、三昼夜に渡って帝は親しく参列した。儀式が終わると、帝は最上位の酒杯を賜った。さらに長春宮で斎醮を七昼夜に渡って営み、南北の道士千余名が加わった。儀式が終わると、帝は祖天師と三十五代天師に封号を加え、玉圭の宝冠・法服・絹織物を賜い、全ての斎醮は張天師を手本とするよう命じ、江南の街道の天慶観を玄妙観に改名した。賞賜が厚く贈られ、人々はその厚遇を誉れとした。
ある日、天師は弟子に、「私は世慣れしていないのにも関わらず、都に長く留まっている。望ましいことではない。」と言い、帝や臣下の期待に沿えなくなったので龍虎山に帰らせて欲しいと懇願したが、帝は認めなかった。翌月、病により都の崇真宮で羽化した。二十六歳の時であり、三年間の在位であった。帝は長い間嘆き悲しみ、使者に棺を龍虎山へ護送させ、臣下に都の門で哀悼の儀礼を行うよう勅令を出し、後に玉田に葬った。弟の張与材が教団を継いだ。
天師の道法は極めて優れていたことで知られ、元の呉昌齢は「三十七代天師張道玄」を主役とした雑劇『張天師断風花雪月』を作った。