正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

4.張盛(張富)

四代天師の本名は張富、後に改名して張盛とした。字は宋元、系師張魯の四男である。三国争乱の最中であったことから、当初は南鄭に住み、志をよく保って身を修めた。魏の武帝曹操から奉車都尉・散騎侍郎に封じられ、さらに都亭候に封じられたが辞退した。漢の献帝建安二十一年、張魯は羽化し、遺言に従い教団を継いだ。

建安二十五年(220)、曹操が亡くなった。その後、曹丕が漢王朝を簒奪して独立し、国号を魏として漢王朝は滅亡した。ある日、天師が夜中に大江の東を望むと瑞気が天を貫いているのが見えたので、妻に「今こそ仙丹を作る時だ!」と言った。印・剣・経籙を携えて南に遊び、鄱陽郡に着いたとき「近いぞ!」と言い、山に向かって五日後、峰の景色が美しい場所に着いて登り、喜びを顔に出すことなく、「やっと着いたぞ!」と言った。山頂に隠者の住まいの跡を見つけた。これこそかつて祖天師が練丹と修養に励んだ場であった。そこで周囲に庵を結び暮らすこととした。三元の日に登壇し授籙の儀式を行い、四方の人々に教えを授けた。弟子たちの数は、多い時には千人余りに上った。自分自身が教団の規範となることを宣言し、彼らの指導にあたった。

住んでから一年後に妻が蜀に来て張盛を尋ね、同居して息子を産んだ。九年して仙丹ができあがった。ある日、剣・印を息子の張昭成に託し、西晋の懐帝の永嘉の年、白日の内に天に昇っていった。九十八歳の時であった。人々はこの山を龍虎山と名付けた。子孫の多くは山の北東に住んでいる。