正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

61.張仁晸

六十一代天師の諱は仁晸、字は炳祥、号は清巌、張培源の長男である。道光二十年(1840)三月六日に生まれた。温和な人となりで孝行者として知られていた。幼い頃から六十代天師のもとで道の教えを学び、経典の研鑽に励んだ。

太平天国の乱が起き、咸豊九年(1859)に六十代天師と共に義勇軍の指揮を執り龍虎山一帯を守った。同年に六十代天師は羽化した。

咸豊十一年(1861)に帝が崩御し、同治帝が六歳で即位し、西太后・東太后・恭親王奕訢らが辛酉政変を起こし、後に両太后が帝の摂政として実権を握った。

同治元年(1862)九月一日に天師の位を継いだ。

同治三年(1864)四月に洪秀全が病死した。六月に清軍が太平天国の首都である天京を陥落させた。龍虎山一帯は太平天国の戦乱によって咸豊六年から同治三年の間、十回余りの大小の戦乱に巻き込まれた。天師は破壊された宮観の再建に尽力し、散逸した経典を困難に直面しながらも収集して弟子と共に編纂し直した。

同治四年(1865)に天師は粤東に遊び、仙人と会い、黒い碧玉の印を与えられた。滬城に赴くと、西側でしばしば火の神が悪さをして火災を起こすので、人々は天師に厄除けの符を求めた。仙人が与えた印を用いると火災に遭うことが無くなった。人々は黒い顔に金の鎧を着けた者が符を配っているのを見たという。

同治十一年(1872)に天師は金陵に赴いた。長江を渡る時に風が激しく吹き、波が立って船が進めなくなったので、天師が龍を描いて投げ込むと波は静まった。曾国藩から天下を治める方法を尋ねられたので、天師は、「無為によって世を治めれば事は成し遂げられ、功績は莫大なものとなります。」と答えた。曾国藩は非常に驚き尊敬の意を示し、帝への謁見を取り計らうと約束したが同年に亡くなった。長江水師の彭玉麟から国益について問われたので、天師は、「民が豊かであれば国が豊かとなり、国が豊かであれば兵が強くなり、敵国や外患の憂いなど無くなります。」と答えた。彭玉麟は嘆き憂い、「私は今まで天師を単なる隠者だと思っていたが、一言で治世の要諦を的確に言い尽くすことのできる、世の道に通じたお方であると知り、官職に就いている者として恥ずかしい限りです。」と言った。

上清鎮にキリスト教会が建てられた時、天師はロンドン伝道協会の宣教師ジョゼフ・エドキンズ(1823‐1905)との交流を深めた。

同治十一年(1872)に帝は天師の曽祖父母・祖父母・父母に封号を授けた。同治十二年(1873)に帝が親政に就き、天師の叔父と叔母に封号を授けた。同治十三年(1874)十二月に帝が崩御し、光緒帝が三歳で即位し、両太后が再び摂政に就いた。

光緒二年(1876)に帝は天師に封号を加えて「通議大夫」とし、妻の揚氏に「淑人」の封号を授けた。

光緒六年(1880)に天師は母のために南海で祈祷を行った。普陀山に参詣して帰る途中、強風で船が転覆したが、雲から現れた観音菩薩に助けられ無事であった。

光緒七年(1881)に東太后が死去し、西太后が摂政に就いた。

光緒九年(1883)に清仏戦争が勃発した。天師は祖先の墓参りに西蜀の青城山へ赴き、天師洞で蠟燭を手に持ち祈りを捧げた時、壁に祖天師の姿を見て「降魔」二字の親書を残した。

五月五日に天師は潮州府澄海県の沙仙頭で、弟子に雷を祀り印を洗うよう命じた。流行り病の時であったため、印水を井戸に入れて民に飲ませると病は治った。治療を求める者は数千人に上り、中には外国人も含まれていた。蜀では鮑超が病気の兵士のために使者を派遣して符水を求め、さらに神将の加護を祈願すると効験があったという。

重慶で布商人の某が、ある者から「天師が来たら渡すように。」と言われて剣を預かった。程無くして天師がやって来たので、某は言われた通り天師に剣を渡した。重慶の会館である青龍閣に長い間ウワバミが住み着き、天は陰り、朝夕に雲のような毒気を吐いていた。天師は剣を突いて登り、雷火符を書いて焚くとウワバミはいなくなった。

太平天国の乱により天師の系譜が散逸していたので、天師は『留候天師世家宗譜』八巻を光緒十六年(1890)に刊行して世に伝えた。また、五十九代天師が朝廷から借りていた銀二万両を完済した。

天師は家でいつも端座して言葉少なく、晩年は一心に三十代天師の修練法を究明した。

光緒二十年(1894)に日清戦争が勃発して清朝が敗北し、翌年(1895)の日清講和条約により、清から日本への台湾・澎湖列島の割譲が定められた。光緒二十四年(1898)に帝が親政を宣言し、内政の主導権を与えられた康有為は徹底した内政改革と立憲君主制樹立を最終目標とする変法を実行に移した。彼は孔子の思想を政治改革の中心に位置付ける一方で、宗教に対しては排斥の立場を採ったため、宮廟の多くが略奪の被害に遭った。改革に反発した西太后は、帝の親政開始から百日余りでクーデター(戊戌の政変)を起こし、光緒帝は監禁され、西太后が実権を握った。光緒二十六年(1900)に「扶清滅洋」をスローガンとして義和団の乱が起こり、清朝がこれを支援し、八カ国連合軍との戦いに敗れた。連合軍は北京を占領し、西太后は光緒帝を連れて西安に逃れた。『道蔵』はこの戦火で散逸した。翌年(1901)に北京議定書が調印された。

光緒二十八年(1902)正月十日(西暦二月十七日)に天師は軽い病で羽化した。六十三歳の時であり、四十四年に渡る在職、四十一年に渡る在位であった。