正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

52.張応京

五十二代天師の諱は応京、字は翊宸、張顕祖の長男である。明の思宗崇禎九年(1636)に天師の位を継ぎ、剣・印を掌った。崇禎十二年(1639)十二月に両京・河南・山東・山西で干ばつによる飢饉が発生し、帝は天師に祈祷を命じた。

崇禎十二年(1640)に帝は天師を宮廷へ召した。たまたま、皇太子が麻疹に罹っていたため、帝は祈祷を命じて儀式に親しく参列した。帝が天師に拝礼するので、天師は、「祖天師は漢朝の臣下でありました。子孫である私も、帝から拝礼をお受けするような身分ではございません。」と言うと、帝は、「祖天師は高く深い道の徳により、物言わずとも世を道に化す手助けをなさるお方。六合無窮高明大帝の封号を捧げます。」と言った。儀式が終わると皇太子の病は癒えたので、帝は天師に厚く褒美を賜った。

崇禎十四年(1641)七月に北京で疫病が蔓延し、亡くなる者が昼夜を問わず相次ぎ、街は封鎖されて人々は恐れおののいた。帝は天下に災いが多いことを憂い、天師を召して祈祷させ、霊済宮で宴席を賜い、内官の主席としての待遇でもてなした。八月に太学の修繕が終わったので、帝は天師と共に視察に赴いた。

崇禎十六年(1643)十月に李自成が反乱を起こして闖王を名乗り、潼関を攻略して陝西全域を制圧した。十二月に天師は親の面倒を見るために暇を申し出たので、帝は一年の暇を与え、使者に護送させて帰らせた。

崇禎十七年(1644)正月に李自成が西安で王を名乗り、国号を「大順」とし、三月に北京を制圧し、帝は自害して明朝は滅亡した。その後、山海関将軍の呉三桂が清軍と共に李自成の軍を破って北京を制圧し、十一月に順治帝が清の立国を宣言し、この年を順治元年とした。同年、明朝の皇族が亡命政権として南明を立て、弘光帝(1644−1645在位)が南京で即位したが、一年後に清軍に捕らえられた。

順治二年(1645)閏六月に南明の隆武帝(1645−1646在位)が福州で即位し、隆武と改元した。龍虎山と福州は地を接しており、付近の官軍・民兵・盗賊らが入り乱れ、僧侶が民衆を扇動して略奪を行い、龍虎山一帯にまで被害が及んだ。天師は義勇軍を募って抵抗したが及ばなかったので、老雷壇嶺に登り、天に檄を発して神将を召喚した。俄かに雲が辺りを覆い、神将が黒い虎に乗って現れて賊を追いかけたので、賊は散り散りに逃げて行き、地域の安寧が保たれた。

清朝が国を定め、国土は平定された。その頃、江西の副総兵の王得仁が龍虎山と明の皇室との密接な関係に目を付け、天師と妻が南明に亡命して抵抗するのではと疑い、刺客を送って天師の一族を暗殺しようとしていた。しかし、二十里も行かないうちに天師が道の左に立って王得仁を出迎えたため、王得仁は天師に詫びて、「あなたはどうしてここにおられるのですか?何のご縁で私が来ると分かったのですか?」と言った。龍虎山に着いた後で面談したが、天師の若々しい容貌と俗世を超越した気風に感服し、弟子として拝礼した。

順治三年(1646)に江西巡撫の李翔鳳が天師の符四十幅を帝に献上した。帝は、「福徳を得る道は天を敬い民に尽くすことにあり、それ以外に方法はない。用いて天下に効があると言うのであれば、受け取っておこう。」と言った。

順治六年(1649)、天師は帝に召されて清朝へ恭順の意を表した。帝は宴席を賜い、一品の印を授け、封号を加えて「正一嗣教大真人」とし、天下の道教を掌るよう命じるなど、厚く恩恵を賜った。

順治七年(1650)春に天師と息子の張洪任が都に赴く途中、蘇州西部の山々に遊んだ。道すがら施道淵とその友人に会ったので共に遊んだ。道中、天師は山の霊気を見て、三茅真君が道を修めたといわれる穹窿山の上真観跡を指差した。これを見た施道淵は上真観の再建を志したという。

順治八年(1651)に帝に召されて龍虎山に帰る途中、揚州の瓊花観で羽化した。南山に葬られた。十六年に渡る在位であった。康熙九年(1670)に深田源へ墓が移された。