正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

39.張嗣成

三十九代天師の諱は嗣成、字は次望、号は太玄子、張与材の長男である。道への志が高く、意志が強く言葉少ない人となりであった。

元の武宗至大三年(1310)に張与材と共に帝に謁見した。その後、杭州に赴いて宗陽宮に住んだ。その頃、杭州市街で大火が起き、民が天師に救いを求めた。天師は通江橋に赴いて出火した場所を望み、符水を口に含んで吹きかけると、火はたちまち収まった。

元の仁宗延裕三年(1316)正月に張与材が羽化する時、印・剣を託して教団を継ぐよう命じた。都で張留孫から知らせを受けた帝は龍虎山に使者を派遣し、天師に道教を掌るよう命じると共に宮廷へ召した。十月、天師は明仁殿で帝に謁見した。帝は色々と天師に尋ねた後、「父に似ておるな。」と喜び、金籙大醮を長春宮で営むよう命じ、儀式が終わると宝冠・金服を賜った。十二月に封号を授けて「太玄輔化体仁応道大真人」とし、三山の符籙と江南の道教を掌るよう命じた。さらに母の易氏に封号を授けて「妙明慧応常静真人」とし、詔を出して道教を掌るよう命じた。張天師が度牒と法籙を発行することを認め、賦役を免除した。翌年の延裕四年(1317)正月、天師は龍虎山へ帰ることを帝に申し出たので、帝は使者の護送を付けて帰らせた。

延裕七年(1320)に鹽官で再び高潮が発生したので、帝は詔を出し、天師に大斎醮を営み祈祷するよう命じた。天師は鉄の符を浜辺の損壊した場所に投げ込ませると、三十八代天師の時と同様に、雷電が大いに打ち付けて潮が引いた。三月に元の英宗(1320-1323)が即位した。十二月の天寿節に備え、使者を龍虎山に派遣して斎醮を営むよう命じ、天師を宮廷に召した。

元の英宗至治元年(1321)六月に天師は上都で帝に謁見した。帝は三山の符籙と江南の道教を掌るよう命じ、以前と同様に使者の護送を付けて帰らせた。

元の泰定帝(1323−1328在位)は泰定元年(1324)に天師を宮廷に召し、大明殿で会った。

泰定二年(1325)正月に日食があり、大臣は天師に雪が降るよう祈祷して災いを除くよう求め、天師が祈祷すると大雪が降った。帝は喜び、殿上で宴席を賜った。二月に帝は黄籙大醮を長春宮で七日間営むよう命じ、儀式の最中に天花雲鶴の瑞祥が現れたので、帝は国子司業の虞集に命じてこれを記録させた。また、宝冠・金服を賜い、封号を加えて「翊元崇徳」とし、集賢院を掌るよう命じ、妻の胡氏に封号を加えて「明慧慈順仙姑」とした。天師が龍虎山に帰る時には以前と同様に褒美を与えた。七月に帝は使者を龍虎山に派遣し、龍虎・武当の二山の祭祀を執り行うよう命じ、泰定三年(1326)四月には龍虎・三茅・閣皂の三山の祭祀を執り行うよう命じた。

泰定四年(1327)五月に鹽官の防波堤が再び決壊して海岸の浸食が街にまで及ぼうとしていた。天師は帝の命により赴き、斎醮を佑聖観で営むと、三本足の亀が殿上に現れて潮が引いた。杭州で干ばつの被害が報告されると、天師は祈祷して雨を降らせた。

元の文宗天暦二年(1329)十一月、帝は玉虚・太乙・天宝・万寿の四宮と武当・龍虎の二山で元の明宗の冥福を祈るための斎醮を営むよう、道士たちに命じた。

元の文宗至順元年(1330)に帝は天師を宮廷へ召し、道教を庇護する詔を出した。

元の恵宗(1333−1370在位)至元元年(1335)に帝は天師を宮廷へ召して明仁殿で会った。時に都は干ばつの最中にあったので、天師が崇真宮で祈祷すると大いに雨が降った。秋には大雨の被害に見舞われたので祈祷して鎮めた。冬には雪が降らなかったので祈祷すると雪が降った。帝は大いに喜び、天師に上等の褒美を賜り、近臣に「私は天師の手を大いに煩わせた。その功績の一部始終を私の言葉と共に記録すべきである。」と言った。時の文人である伝若金は天師の神威を讃嘆する歌を作った。至元二年(1336)四月に帝は使者を武当・龍虎二山へ派遣して香と供物を賜った。

至元三年(1337)三月に帝は詔を出して天師が集賢院を掌る旨を世に広く知らしめ、四月に使者を龍虎・三茅・閣?の諸山へ派遣して香を賜った。天師は長い間都に留まっていたため、龍虎山に帰る旨を帝に申し出た。帝は百官と共に餞別の宴会を開き、使者の護送を付けて帰らせた。天師は龍虎山に帰った後、日増しに世俗との交わりを避けるようになり、悠々自適の生活を送った。

元の恵宗至正四年(1344)に天師は五岳と青城山に遊んだ。まず泰山に登り、九月に船で呂梁洪に向かったが、夕暮れ時に一人の老人が天師と会い、何かひそひそ話をした後、しばらくして去って行った。翌日、天師は船を引き返すよう命じたが、九月一四日に宝応県に差し掛かった時、船中で羽化した。弟子は棺と宝剣を持って龍虎山に帰ろうとしたところ、鄱湖に入った所で雲がかかり、二匹の黒龍がやって来て船を早く進め、この神異によって六日もせずに帰ることができた。後に南山に葬った。二十九年に渡る在位であった。息子は幼かったため、弟の張嗣徳が教団を継いだ。

天師の絵画『盧山図』は当時の名声を得た。龍の絵を描くことに最も長けており、草書も優れていた。『題葉氏四愛堂』『題莫月鼎像』の詩と、『道徳真経章句訓頌』二巻の著作がある。南宋の陳容の作『九龍図巻』の跋、『金蓮正宗仙源像伝』序・『玄天大聖真武本伝跋語』・『九天応元雷声普化天尊玉枢宝経集註』跋などを書いた。

天師の功績は霊宝派の伝承にも組み込まれている。