五十三代天師の諱は洪任、字は漢基、張応京の長男である。明の崇禎四年(1631)に生まれた。幼い時に混成院の何海曙から教えを受け、学ぶことを好み、道術に広く通じていた。
順治八年(1651)に張応京が羽化し、順治九年(1652)に天師の位を継ぎ、帝は封号を加えて「正一嗣教大真人」とした。順治十二年(1655)に帝は天師を宮廷へ召して海南子で会った。天師は清朝へ恭順の意を表し、歴代天師の系譜について問われると、「天師世家」に基づいて説明した。帝は光禄寺で宴席を賜い、礼部の長官を陪席させた。また、工部に住居を探させ、霊裕宮察院を天師の居所とした。帝は詔を出して天師の居所と龍虎山の各種徭役を免除した。順治十三年(1656)と順治十六年(1659)に帝は天師を宮廷へ召し、以前と同様に宴席を賜った。
順治十五年(1658)、帝に召されて都に向かう道中、天師は穹窿山の三茅峰を再び訪れ、施道淵が上真観の再建を終えたことを知り、帝に上奏した。帝は「上真観」の額を賜い、施道淵に封号を加えて「養元抱一宣教演化法師」とした。順治十七年(1660)四月に天師は『穹窿山志』の序を書いた。
諸国で妖魔が害を為しているとの報告を聞き、帝は天師に駆除するよう命じた。天師は弟子の高堆泰と楊幼芬を派遣して対応させると、妖魔は程無くして駆除された。人々はその神威に感動し、道教への崇敬の念は衰えることがなかった。暇を見つけては詩や酒を楽しみ、酔いしれて満足げな様子であった。西化園の池や沼を切り開いて修練の場としたが、たちまちその場に溶け込んでいった。
天師は以前、「可与宏教」の堂額を蘇州の衛道観の再建に携わっていた周世徳に与えた。堂額の意味に符合するかのように、周世徳は十年余り後に再建を成し遂げたため、天師が予言したのではないかと言われている。
康熙六年(1667)に軽い病で羽化し、金谿米坊に葬られた。三十七歳の時であり、十六年に渡る在位であった。息子は一歳にも満たなかったので、同父異母の弟である張洪偕が仮の形で教団を継ぐことにした。