三十三代天師の諱は景淵、初めの名は伯璟であったが、宋の高宗が御親筆で改名させた。字は徳瑩、三十二代天師の長男である。装束を着けると威厳があり、後頭部は豊満で、美しい顎髭を生やしており、人々は皆、天師としての気風があると称えた。
孝宋皇帝の乾道六年(1170)に三十二代天師と共に帝に召され、太上皇(高宗)は座を賜い、斎の食事を賜い、御親筆で改名させて景淵とした。さらに帝の部屋に召されて道法を説いたところ、帝は大層満足した。翌月、太上皇は三十二代天師に月台で大醮を営むよう命じたので、張景淵にこれを執り行わせた。太上皇は神々が応じる毎に張景淵に重ねて賞賜を送り、その後、象牙の笏を賜い、龍虎山に帰らせた。乾道八年(1172)から天師の位を継いで三元日の斎醮を掌り、符籙を受ける者が大いに増していった。
淳煕七年(1180)、明州を治めていた皇子の魏王趙愷が病にかかり、祭壇を建てた上で来訪を天師にお願いした。天師がやって来て水に術をかけて飲ませると病は癒えたので、趙愷は特に厚く礼品を送った。ある日、趙愷は再び天師を召すために使者を遣わしたが、天師は門前で使者に、「あなた様からの寵愛を受けているとはいえ、私にも仙期というものがございます。ご意向に沿えそうにありません。」と言い、机の前に座り、病気になること無く羽化した。剣を上清莒家源に埋葬した。九年に渡る在位であった。