正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

60.張培源

六十代天師の諱は培源、字は育成、号は養泉、張鈺の長男である。嘉慶十八年(1813)七月十七日に生まれた。生まれつき抜きん出て優れ、詩書を学び、孝行を尽くし、兄弟の仲が良く、謙虚で素直かつ言葉に親しみが感じられた。普段から人に善を施すことを好み、親族が困っている時には躊躇うことなく援助した。出処進退は鶴に似ており、人々から「白鶴仙師」と呼ばれた。『大梵先天斗母玄科』を探究して妙理を大いに明らかにし、あらゆる符法に通じ、一気に符を書き上げた。

道光元年(1821)に五十九代天師が羽化した時、張培源は幼く、叔父の張銘が教務を代行した。道光九年(1829)に天師の位を継いだ。数年に渡る母の病のため遠くに離れることができず、帝に謁見することができなかった。

浙江海寧州で物の怪が悪さをして堤防が崩れ、人々は天師に助けを求めた。天師が赴いて斎醮を営むと立ちどころに効験を示した。道光十一年(1831)に再び水害が起きて沿岸数百里が浸水したので、将軍の奕湘が救援を求める書を天師に送った。天師は弟の張培沐に印・剣を持って行かせて対処するよう命じた。斎醮を数日間営み、船に乗って決壊した場所に鉄の符を投げ込むと、風が逆向きに吹いて船は元の場所に戻り、堤防は直っていた。

道光十九年(1839)に林則徐がアヘン貿易を禁じ、イギリス商人の阿片を全て没収して処分したことで、翌年(1840)に阿片戦争が勃発した。英国艦隊は廈門、舟山諸島、寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々と制圧し、清朝は敗戦した。道光二十二年(1842)に清朝は南京条約に調印し、香港の割譲と自由貿易が定められた。道光二十三年(1843)に洪秀全が広東と広西に拝上帝会を作り布教活動を行った。

道光二十五年(1845)七月に龍虎山一帯が長い日照りとイナゴに悩まされ、作物のほとんどが食い尽くされた。県の長官が助けを求めたので、天師が斎醮を七日間営むと、猛烈な雷と風、注ぐような大雨が連日続き、あたかも秋の終わりのような有様であった。最後に符水で道壇を潤すと、川はイナゴの死骸で一杯になった。

道光三十年(1850)に咸豊帝が即位した。咸豊元年(1851)に拝上帝会は広西金田村で決起し、国号を太平天国とした。咸豊元年(1853年)に太平天国軍は江寧を制圧して天京と改名し、太平天国政権(1851−1864)を立て、北伐西征を開始した。清の正規軍である八旗が鎮圧にあたったものの、貴族化により弱体化しており、さらにアヘン戦争で消耗していたこともあって太刀打ちできない状態であった。このため朝廷は各地の郷紳たちに郷勇と呼ばれる臨時の軍隊の徴募を命じた。咸豊五年(1855)に太平天国軍は曽国藩の郷勇軍を破って武昌を制圧し、安徽・江西・湖北東部を支配するまでに至った。太平天国はキリスト教以外の信仰を禁じていたため、支配地域では孔子廟・寺院・道観はことごとく破壊され、経典は燃やされた。

咸豊六年(1856)に清朝は内憂外患に直面した。国内では天地会・三合会・紅会・江湖会などの結社が相次いで決起し、外交ではアロー戦争でイギリス・フランス連合軍に圧倒された。龍虎山一帯を含む江西の地は清軍と太平天国軍との交戦の場となり、翌年(1857)にかけて激戦が続いた。咸豊七年(1857)に義勇軍に加わっていた張培沐が賊の襲撃による負傷で死亡した。

咸豊八年(1858)に太平天国軍は浙江を攻めるべく東へ進み、大小の戦が絶え間なく起こった。兵は龍虎山に及び、天師は印を召使に持たせて応天山に逃げた。道中、丘の上で兵と出くわしたため、召使が慌てて印を道端に落としてしまった。兵は連なって印が落ちた場所を通り過ぎて行ったが見つける者はおらず、足で踏みつけても何も感じなかった。兵が通り過ぎると、天師は召使を𠮟りつけて印を拾った。龍虎山の宮観や神像は兵によって破壊され、経典の多くが散逸した。

咸豊九年(1859)に天師と息子の張仁晸が義勇軍の指揮を執り龍虎山一帯を守った。ある日、赤蛇が庭にやって来てたちまち姿を消した。山の常なので天師は気にも掛けなかったが、翌日の明け方、突然何ら病もなく羽化した。蛇が羽化の兆しを示していたのだ。四十七歳の時であり、三十一年に渡る在位であった。南極観に葬られた。