正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

42.張正常

四十二代天師の諱は正常、字は仲紀、号は沖虚子、張嗣成の嫡系、張正言の従兄弟である。古風な神々しい容貌で、物静かで言葉少ない人となりであった。元の恵宗至元元年(1335)六月十三日に生まれた。張嗣成が寝ている時、夢の中で神人が空を飛んで来て、「わしは華蓋山から来た者じゃ、どうか受け入れてくれ。」とのお告げがあり、目が覚めた時に生まれていたという。

幼い頃から賢く、とても温厚で、眼光鋭く、老荘の教えに通じ、仙術・道法の習得を篤く志していた。あらゆる経典や秘文に当然のごとく通じていた。楽しく明るい人柄で、邪に染まることがなかった。万物を超越するという意味を込めて自ら「沖虚子」と号した。山水を最も愛し、仙跡を訪れ、深山幽谷の奥深くに分け入り、数日間帰ることを忘れる程であった。家族の世話も熱心であり、母に孝行を尽くし、亡くなった時には葬祭の礼を尽くした。当時は戦乱の最中であったことから、財産を投じて義勇兵を募り、龍虎山一帯を守ったため、人々から頼りにされていた。

至正四年(1344)に三十九代天師が五岳に遊び、相伝の印・剣を指し、「龍星は再び亥に集まり、我が子孫がこれを受け継ぎ、道法が大いに広まるであろう。」と言った後に羽化した。その後、四十代、四十一代と受け継がれ、張正常は後継者と目される中で四十一代天師を熱心に補佐した。四十一代天師が羽化し、至正十九年己亥(1359)の年に張正常が天師の位を継いだ。三十九代天師はこれを予言したのであった。天師が道壇に登って道の教えを説くと、各地から訪れた人々はその高遠な道理を領解した。時は戦乱の最中で経籙が長い間伝授されなかったため、天師が就任して間もなく授籙を求める者が押し寄せたこの年は日照りが多かったので、天師が禹歩で風と雷を招き、精神が最高の境地に達するや否や雨が降り注いだ。魑魅魍魎に憑依された者へ符を授けると、たちまちの内に回復した。また、幾万もの兵士が疫病に苦しみ、病の気が収まらないため、道壇を設けて祭礼の場を作り、陰陽鼎を設けて法事を執り行うと大いに効験が現れた。天師の剣の一つが失われて鄱陽の季氏の家に飾られていたが、夜中に怪しい光を発するので気味が悪くなり、天師に返すことにした。

至正二十年(1360)に朱元璋が信州を占領し、翌年(1361)に使者を派遣して天師を召した。天師は赴くに当たって使者に上奏文を託し、朱元璋に帝王の瑞兆があることを認めて恭順の意を示した。朱元璋は親書を送った。

至正二十五年(1365)に朱元璋は天師を応天府に召して喜び、「鋭い眼光と誇らしい気風、正に祖天師の子孫である。」と言って宴席を賜い、褒美を与え、さらに宴会に召して金を賜い、龍虎山に帰らせた。

至正二十六年(1366)に朱元璋は再び天師を応天府に召し、朝天宮に住まわせた。当時、疫病が流行っており、毎日千人以上もの人々が天師の符を求めて詰め掛けた。官吏らは門を閉ざして入れさせなかったが、騒ぎが止むことは無かった。朱元璋が天師に符水を作って施すよう命じたので、天師は巨大な符を書いて朝天宮の井戸に投げ入れると、人々は井戸の水を争って汲み、底の土が見える程になっても汲みに来る人々が続々とやって来た。病人は皆、この水を飲むと治った。朱元璋はこれを聞いて喜び、井戸に亭を作らせて「太乙泉」と号した。また、太上延禧諸階法籙を授けるよう命じた。その後、天師は暇乞いをして龍虎山に帰る時、朱元璋は臣下や宦官に刺繍のされた金の衣を贈らせ、以後召す時は天師に馬を支給するよう中書に命じた。

呉元の年(1367)、天師は朱元璋に書簡を送り、帝として即位するよう勧めた。朱元璋は天師に、道士たちを選んで宮廷に派遣し、天の神々への奏上と祈祷をさせるよう命じた。

洪武元年(1368)に朱元璋が皇帝として即位し、国号を「大明」とし、応天府を都とした。天師は宮廷に召されて帝に祝いの言葉を述べ、帝は便殿で宴席を賜い、「ここにそなたへ大真人の封号を加えよう」と言い、俸禄を定めるよう臣下に命じたため、天師はこれを辞退し、歴代王朝と同様に徭役が免除され、宗教活動に専念できれば十分であると申し立てた。帝は喜んで天師の申し立てを認め、大上清宮の各種徭役を免除することを永年の定めとし、天師に封号を加えて「正一教主嗣漢四十二代天師護国闡祖通誠崇道弘徳大真人」とし、教団を掌るよう命じた。さらに銀印を賜い二品とし、天師の補佐として賛教・掌書などの役職を設けた。しばらくして、天師が暇乞いをして龍虎山に帰る時、帝は謹身殿で天師と会い、落ち着いた様子で、「祖天師からそなたに至るまで、天師は国に功を成し、綿々と続く家系は孔子と並び称される。そなたがこれを心得て、清静無為によって国を助けてくれるならば、私にとってこれほど喜ばしいことは無い。」と言い、白金十五鎰を賜い、天師の家の修繕に供した。

同年八月、帝は臣下に、「唯一尊いとされる天に師など不要である。天師という称号は天を甚だしく貶めるものだ。」と言い、天師の称号を廃止して「大真人」とし、天師の印を「真人印」に改めた。この呼称は朝廷でのみ用いられ、世の人は「天師」の呼称を用い続けた。

洪武二年(1369)二月、帝は天師を特別に宮殿へ召した。帝は奉天殿で天師と会い、宴席を設けて接待するよう臣下に命じた。この月だけで帝は四回の諮問を行い、二回の宴席を賜った。三月十三日に帝は天帝を祀るため三日間の斎戒を行い、袞衣冕服を着け、天帝への上奏文に親しく署名し、太常に雅楽を演奏するよう命じた。上奏文は天師に手渡されて祈祷の際に焚かれた。儀式の後、帝は天師に金を賜い、文楼で宴会を行い、弟子たちを別館でもてなし、身分に応じて賞賜を贈った。

洪武三年(1370)六月の夏、帝は天師の父母に封号を加えるよう吏部に命じ、三十九代天師に封号を加えて「正一教主太玄弘化明成崇道大真人」とし、母の胡氏を「恭順慈恵淑静玄君」とした。母の胡氏は八十歳という高齢であり、人々はこれを誉とした。この年の秋に帝は天師を再び宮廷に召して鬼神について問い、「掌天下道教」の銀印を与えた。

洪武五年(1372)の秋、帝は天師を特別に宮殿へ召し、天下の道教を掌るよう命じて天師を歓迎した。

十二月の冬、帝は天師を再び宮殿へ召した。洪武六年(1373)の春に天師が龍虎山へ帰る時、帝は弟子を都に留めて国の祭事を担当させるよう命じた。

洪武九年(1376)に天師は『漢天師世家』を編纂し、宋濂が序を書いた。秋に帝は使者を送って天師を宮廷に召そうとしたが、天師の方が先に宮廷に赴いていた。帝は喜び、「そなたはどのようにして私の心を推し量ったのか?来年の秋に山海の神々を祀るため、使者を派遣しようとしていた矢先に、弟子たちと共に来てくれるとは。」と言って、宴席を賜い、さらに金の刺繡がされた法衣・玉の笏・帯玉・法器などを賜った。

洪武十年(1377)夏に天師は弟子たちと共に宮廷に赴いた。帝は午門の城楼で宴席を賜い、盃を挙げて「どうぞこの盃をお受けください。」と言い、内侍に御製の『歴代天師賛』を作るよう命じ、完成した後で天師に賜うことを伝えた。翌日、帝は天師に韓国公の李善長と共に嵩山へ参拝に行くよう命じ、他の大臣と弟子たちを各山岳へ派遣し、各々に衣を賜い、身分に応じて紙幣を与えた。参拝を終えて帰った後、帝は宴会と賞賜を賜った。

天師が龍虎山に帰って以後、情緒に普段と異なる所があった。ある日、天師は酒を持って来て弟と一緒に飲んでいたが、たけなわとなった時に嘆き憂い、「三十九代天師は五岳の名山に遊ぼうとして果たせなかったが、私は幸いにも帝のお陰で、祖天師が中峰の石室で制命の書を得たと伝えられる嵩山に参ることができた。大空の太陽は世俗の塵埃から遥か遠く離れているように、もはや私の心もこの世から離れて行くのだ!」と言い、それを聞いた周りの者は皆、天師に何事かあるのではないかと不審に思った。程無くして天師は軽い病に罹り、十二月五日(西暦1378年1月14日)に寝台に端座して弟子の方従義に、「私は帝の恩寵に報いることができなかった。お前たちは次の天師が世の平安にために働けるよう補佐しなさい。」と遺言を託し、剣・印を持って来させて息子の張宇初に授け、「これが我が家に千五百年に渡り代々伝えられたことを心せよ。生死は巡り合わせに過ぎない。我が不死の光明は太陽の如く世を照らすこと始まりも終わりもない。」と言い、手を挙げて円を描いた後、静かに羽化した。夕方に崖の石が崩れ、数十里に渡って響いた。

洪武十一年(1378)正月、礼部尚書の張籌が帝に訃報を伝えると、帝はしばらく嘆き悲しみ、「五岳へ遍く参るよう命じたいと思っていたのに、嵩山へ参っただけで逝ってしまうとは!」と言い、親しく一通の祭文を作った。

宋濂が碑の銘文を作った。亡骸は南山の刺坑口に埋葬された。四十三歳の時であり、十九年に渡る在位であった。