正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

43.張宇初

四十三代天師の諱は宇初、字は子璿、号は無為子、別の号は耆山、張正常の長男である。生まれた時から気骨清らかで温もりがあり、美しい瞳に二重の瞼はさながら舜帝のようで、頬には南斗六星、首筋には北斗七星の形に並んだほくろがあり、顔面で互いに交差していた。五歳から書をすらすらと読みこなし、九歳には大人のように賢くなった。ある日、仙人が会いに来て、「この子は仙者の儒、後に教団を繫栄に導くことでしょう。」と褒め称えたという。

洪武十年(1377)に十七歳で教団を継いだ。洪武十一年(1378)の春、帝は天師を宮廷に召して奉天殿で会い、天師の顔をまじまじと見て笑い、「父によく似ておるな。」と言って褒美を賜った。

洪武十三年(1380)に四十二代天師の喪が明けた。帝は龍虎山に使者を派遣し、張宇初を正式に天師として認め、封号を加えて「正一嗣教道合無為闡祖光範真人」とする勅令を出し、宮廷に赴くよう命じた。勅令は帝の親書であった。天師は宮廷に赴き帝の厚遇に陳謝した。帝は親しく勅書を降し、道の教えに努め励んで神威を高めるよう命じ、法衣と金を賜い、馬を支給して帰らせた。

洪武十余年(1381)、帝は天師の母に「清虚沖素妙善玄君」の封号を授けた。洪武十五年(1382)に僧録司と道録司が置かれ、国家による僧侶と道士への統制が次第に厳しさを増していった。洪武十六年(1383)、帝は天師を再び宮廷に召し、紫金山で玉籙大斎を営むよう命じた。洪武十八年(1385)夏に都が日照りとなり、帝は天師に神楽観で雨乞いを行うよう命じ、大いに効験があった。

洪武二十三年(1390)秋、帝は天師を宮廷に召した。天師は帝に大上清宮の再建を認めるよう上奏し、遼王の朱植と多くの親王が再建を援助した。以後、歴代の親王が大上清宮の修復を援助することが習わしとなった。

洪武二十四年(1391)六月、帝は礼部に寺院と道観の整理を命じ、僧侶や道士が建てた庵や歴史の浅い寺院や道観は全て破壊された。江西・浙江・福建では張天師の名を騙って符籙を偽造する者が多かったので、礼部に命じて符籙の偽造を禁止させた。八月、帝は天師を宮廷に召し、天師が符籙に使う印として銅で作られた六品の「龍虎山正一玄壇之印」を賜い、符籙に割印を用いて偽造を防ぎ、道の教えを守ることとした。天師は龍虎山に帰り、峰の下の竹林の地を選び、峴泉精舎を建てて休息の場所とした。

洪武三十一年(1398)に洪武帝が崩御して建文帝が即位し、翌年に建文(1399‐1402)へ改元された。天師が朝廷の政争に巻き込まれてしまい、この間、天師の印と封号の使用が禁止された。

洪武三十五年(1402)に永楽帝が即位し、天師の印と封号の使用が認められた。天師が帝の即位を祝うために宮廷へ赴くと、帝は天師を最上級の待遇で迎え、大上清宮の修復のための金銭を賜った。永楽元年(1403)、帝は天師を宮廷に召して金の花の紋が入った法衣を賜い、天壇での祭祀に付き添うよう命じた。

永楽四年(1406)、帝は天師を宮廷に召し、道教書籍を編纂して献上するよう命じた。永楽五年(1407)の夏にも再び同様の命を下し、さらに朝天宮で玉籙大斎を営むよう命じた。儀式の最中に美しい雲が道壇を覆い、鳳凰と鶴が舞う吉祥が現れたので、祭官が帝に報告し、帝は大層喜んで天師を称える旨の勅書と金糸の文官服を賜った。

同年(1407)に天師は『峴泉集』を書き上げ、遼王の朱植が喜んで序を書いて印刷した。帝はこれを読み、天師を最高の待遇でもてなし、王公紳士も皆、天師に尊敬の念を示した。

永楽六年(1408)三月、帝は張天師の弟子のみに籙が授けられることと定めた。四月に延禧法籙の伝授を命じ、朝天宮で延禧大斎五壇を営み、大いに効験があった。儀式の後、帝は天師に宮廷の珍品を賜い、特別に馬を支給して帰らせた。十月、帝は天師に仙人の張三丰を探すよう命じ、永楽七年(1409)八月にも同様の命を下した。

永楽八年(1410)春、天師は軽い病に罹り、精神が高揚して訳の分からないことを言うようになり、天師の身に何が起こるか予測のつかない事態となった。ある日、天師は帝が賜った冠服と相伝の印・剣を弟の張宇清に授け、「これが我が家に千六百年伝えられてきたものである。私は間もなく羽化する。国の恩に報い、祖先の恩に報いることがお前の責務となる。」と遺言を託して、家の者に薬や食事を持って来ないよう言いつけ、息を落ち着かせて精神を集中させていた。三日後に筆を求めて頌を書き、手を挙げて前を指差して羽化した。弟子の袁止安が帝に報告するために都へ赴くと、帝は北京へ赴いて留守のため、皇太子が代理を務めており、使者を派遣して葬儀を執り行った。翌年(1411)に帝は追悼の意を表し、使者を派遣して祭文を賜った。

蜀王の朱椿が道士の鍾英を派遣して祭礼を執り行った。亡骸は峴泉に葬られた。五十歳の時であり、三十四年に渡る在位であった。

天師の著作に『峴泉集』二十巻、『道門十規』一巻、『元始無量度人上品妙経通義』四巻がある。『三十代天師虚靖真君語録』七巻を編纂し、『龍虎山志』十巻と『漢天師世家』の増補・修訂を行ったうえで出版した。また、『天師世家張氏宗譜』の最初の修訂を行い後序を書いた。

天師の交友は幅広く、道士や宮廟の著作に序を書くことを楽しみとした。『上清大洞真経』後序・『太極祭錬内法』序、『道徳真経集義』序、『華蓋山三仙事実序』・『還真集』序・『大滌洞天記』序・『白鶴観志序』等がある。

書画にも優れ、『夏林浄隠図』・『秋林平遠図』等があり、行書と草書の『道家識語』や楷書の『跋宋拓黄庭経』等がある。