正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

57.張存義

五十七代天師の諱は存義、字は万真、号は宜亭、張遇隆の長男である。乾隆十七年(1752)五月六日に生まれた。生まれつき聡明で非凡な才覚の持ち主であった。

乾隆三十一年(1766)に十五歳で天師の位を継いだ。帝は天師を宮廷に召して雨乞いを命じると効験があった。五月に帝は、「天師にはこれまで高位を授けてきたところ、梅瑴成の申し立てがあり、大学士と礼部との協議によって五品に降格となった。ただ、天師が代々教団を継承し、長きに渡り道教を守り伝えていることを思うと、たまたま先代が降格されたからといって、子孫にまでその不利益を受け継がせる必要は無いであろう。以前のように極端な高位を与えるのは行き過ぎであるが、だからといって五品に降格するのも極端な貶めと言わざるを得ない。また、天師の弟子である婁近垣が四品で、天師が弟子よりも位が下というのは不釣り合いである。今、そなたに恩賜を与えて三品に昇格し、位を世襲とするよう命じる。」と言い、天師の位を五品から三品に昇格し、新しい爵印を与え、親筆の「真霊福地」の扁額・宮中で刺繍された老子の像・親筆の経典などを賜い、以後召す時は天師と随行の弟子に馬を支給することとした。

乾隆三十四年(1769)に帝は天師を宮廷に召した。雪を乞う祈祷をさせると効験があったので、帝は珊瑚碧玉の道冠と刺繍の施された法衣を賜った。上元の日に宴席を賜い、共にランタン祭りを楽しんだ。天師が龍虎山に帰る時、帝は親筆の『黄帝内景経』一部を賜い、龍虎山の上清宮に奉納することとした。乾隆三十五年(1770)に天師は帝の誕生日を祝う儀礼に参列する予定だったが、母が亡くなり喪に服する必要が生じたため、帝の思し召しにより参列を免除された。

乾隆三十六年(1771)に乾隆帝の母である孝聖憲皇后が八十歳の誕生日を迎えたため、帝は天師へのお礼の意味を込め、封号を加えて「通議大夫」とし、祖母の韓氏と妻の謝氏を「淑人」とした。さらに五十六代天師に封号を加えて「通議大夫」とし、母の陳氏を「淑人」とした。

乾隆四十一年(1776)に帝は孝聖憲皇后のための棺材を選ぶよう命じ、賞賜として銀一千両を贈り、さらに齊雲山に行って香を捧げるよう命じた。乾隆四十二年(1777)に帝は天師の母に封号を加えた。

天師が家にいる時は祖母に孝養を尽くし、楽しませ満足させていた。大上清宮の修繕と万法宗壇の再建を指揮し、玄壇殿で職務に就き、親族と共に廟宇の屋根の葺き替えにあたった。常に勤勉で、道を学ぶことに対する志を篤く持ち、文章に長け、暇があれば弟子と共に経典の研究に励み、道術の手記を数十巻書くなど止まることが無かった。上清宮迎華院を掌っていた張資理に五雷正法を授けた。

乾隆四十四年(1779)四月二十六日に病により羽化した。二十八歳の時であり、十四年に渡る在位であった。子が無く、遺言により張昭麟の子である張起隆が教団を継ぐこととなった。