三代系師張魯の字は公期(旗)、かつて鎮南の将軍に封じられたことから張鎮南とも称される。嗣師張衡の長男である。成人した時には堂々たる容貌に加え、幅広い見識に勇猛さと剛毅果断な性格を兼ね備えていた。若い頃から正一道の教えを受けて祖天師の法を守った。当時の漢朝はますます衰退し、中原は黄巾の乱によって荒らされた。張魯の故郷も黄巾軍によって脅かされたため、義勇軍を募って防衛した。道によって人々を導いたので、従う者は次第に多くなった。
漢の献帝の初平年間(190−193)、益州の行政長官である劉焉に謀反の動きがあったので、張魯を督義司馬に任命して漢中に兵を進ませたが、張魯は漢中の民を寛大に扱った。劉焉が亡くなって子の劉璋が後を継いだが、張魯は彼の暗愚さに愛想をつかして従おうとせず、勢力を巴漢にまで及ぼした。朝廷はこれを押え付けられず、張魯を懐柔して安民中郎将として漢中・南鄭二郡の太守に任命し、表向きは朝廷に貢物を送って服従の意を示すだけで実質上の自治が認められた。張魯は三十年に渡って巴漢を統治し、政教合一の制を敷いて自ら師君と称し、役人を置かずに祭酒によって統治し、領地を管理する首領を治頭大祭酒とした。民族の差別なく誰でも道門に入れ、門下の人々は誠敬の心を持って人を欺いてはならないと教えられ、『老子想爾注』を学んだ。病人がいれば、犯した過ちを自白させて治した。善行の者がいれば経籙を佩びさせて周囲の人々にも善を勧め、しばらくすると皆が教化されていった。また、祭酒たちに義舎を道沿いに建てさせて義米・義肉を置き、旅人の食事に供した。法を犯した者は三回まで許され、それ以上犯した者のみ罰せられた。軽い罪の者は百歩分の道路を治すことで罪が免じられた。また、月ごとのお触れにより春と夏は殺生と飲酒が禁じられた。この地に流れ着いた者は、道に関心を示さない者であっても、民族の境無く皆が楽しんだ。漢遂・馬超の乱の時に、関西の数万家もの民が張魯を頼って避難した。ある人は地中から玉の印を見つけ、これを瑞祥だとして張魯を漢の寧王に据えようとする動きもあったが、張魯は拒絶した。
漢中の地は関中と蜀に接していることから戦渦に巻き込まれ易い地であった。建安二十年(215)に魏王曹操(155−220)は兵を漢中へ進めた。陽平関を突破されたことで張魯は投降の意を示し、国庫を封印し、南山へ逃れて巴中に入ることにした。側近は曹操軍を利することを恐れて国庫を焼き払うよう進言したが、張魯は、「元々国庫は漢朝が管理するべきものであるが、たまたま太守である私に任されていたに過ぎない。その私が国庫を焼き払って逃げなどすれば、漢朝への悪意があると疑いをかけられる恐れがある。国庫は国家の物であり、私の一存で処分できない。」と言い、国庫を封印して去った。曹操の兵が追って来たことを弟子が報告すると、張魯は、「恐れることはない!」と言い、弟子たちと山の頂に登って見渡すと、兵馬が四合付近まで迫っているのが見えた。張魯が笏に符を書くと地面が川となって激しく流れ、深さは測り知れず、兵は渡ることができなくなった。使者が水兵を率いて川を渡ったので、再び笏に符を書いて川の中に投げ込むと、高さ千余丈の山が現れて兵が進めなくなった。使者は引き返し、起きたことをありのままに報告した。
曹操は兵を率いて南鄭に入り、国庫が無事であるのを見て張魯に悪意が無いと知って好意を感じ、使者を派遣して張魯を説得することにした。張魯は投降の意思を示したので、梁・益二州の刺史として鎮南将軍・閬中候に封じようとしたが、張魯は固辞して使者に、「私は道を修めて天に昇って仙人となることを願いとしており、立身出世を求める気はありません。お願いですから、私から取り上げた印綬を返して二度と来ないで下さい。」と言った。張魯の五人の子は皆、列候に封じられ、曹操の子は張魯の娘を娶った。曹操が北方に勢力を移した後、張魯と八万余りの信者たちは洛陽・鄴城などの地に移り住んだ。
ある日、張魯は息子の張盛(張富)を召して経籙・剣・印を授け、「龍虎山に祖天師の玄壇があり、天の星が照応し、地の気が和合し、神人が住まい、煉丹の秘文が洞窟の各所に保管されている。お前はそこに行って私が羽化したことを祖天師に報告し、修練を積んで道を修めなさい。」と言った。建安二十一年(216)に太白山の南峰で羽化し、褒城県の南に葬られた。諡号は原候。三十八年に渡って在位した。後に姜維が蜀の西山に駐屯した際、張魯と霧の中で出会ったという。
太上老君は二十四の治を祖天師張道陵に託し、祖天師は漢安二年(143)に四治を加え、二代嗣師張衡は建安三年(198)に八品の配治を立て、三代系師張魯は三国呉の大帝孫権の太元二年(252)に八品の遊治を立て、合わせて四十四治とした。正一道の教勢が北方に移動したことで、治と地域との関連性は失われて有名無実なものとなり、現代の道教教団では、太上老君の二十四治と祖天師が加えた四治を合わせて二十八治とし、二十八宿・二十四炁に対応したものとして伝えている。
魏の甘露四年(259)に水害があり、張魯の墓の棺が開いてしまったが、亡骸は生きているかのようであった。棺から出して寝台に横たえると、張魯は生き返って払子を持って顔を覆い、大きく笑って棺から出したことを叱り付けた後に再び亡くなったので、また元通りに葬った。
銭塘の杜昺は正一道の教えを存続させるべく、家を単位とした「杜治」を提唱して民の多くが従った。言い伝えによると、夜中に張魯を名乗る神人が降臨し、道法を受け継ぐようお告げがあり、秘訣と治を掌る法を授かったという。杜治は後に士族の家庭を中心に営まれるようになり、「書聖」王羲之は杜治の流れに属する道士でもあった。