正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

46.張元吉

四十六代天師の諱は元吉、字は孟陽、号は太和、張懋丞の孫、父は張留綱である。宣徳十年(1435)一月九日に生まれた。母の高氏が夢の中で太白星が虹のように光って降り、白鳳となって懐に入ったのを見た。目が覚めると光が部屋に満ちており、妊娠したように感じて張元吉を生み、その時、霊芝が東の柱の礎に生えてきたという。幼い時から並々ならぬ明敏さを持ち、道教経典や儒学書をたちまち読み終えた。詩歌を作ることを好んだが、読んだ者は皆、俗世を超越した表現に驚いた。

正統十年(1445)に四十五代天師が羽化した時、張元吉は十一歳になったばかりであった。四十五代天師は親から子へ天師の位を継承すべきとの立場から、帝の後ろ盾のもとで張元吉を後継者として定めたが、四十三代天師の子である張懋嘉との間で御家争いが起きた。一説では張懋嘉が天師の位を乗っ取るため、張元吉の幼さに乗じて金玉・法器・書状を奪い、宮廷に行かせないように画策したという。四月、祖母の董氏が張元吉を連れて密かに都へ行き、それを知った張懋嘉も一族と共に都に赴き、双方が真武廟で揉め事を起こした。役人から報告を受けた帝は、張元吉を正統な後継者として認め、幼い者を虐げた咎で張懋嘉を杖で打って朝天宮から追い出し、龍虎山を清めるよう命じた。

帝は張元吉と会うと、幼いながらも成人のような聡明さに感銘を受けた。宮廷の庭園に召して茶席を賜い、天師の位を継ぐことを命じ、手厚く贈り物を賜り、龍虎山へ帰らせた。同年十一月に『正統道蔵』が刊行された。

正統十一年(1446)五月、帝は張元吉を仁智殿に召し、『趙天君符』を書くように命じると、神虎の吼える声がぼんやりと聞こえた。帝は驚嘆して喜び、冠服・圭の帯玉・金を賜い、封号を加えて「正一嗣教沖虚守素紹祖崇法真人」とし、道教を掌るよう命じた。また、張元吉の父に「正一嗣教崇玄養素寂静真人」、母に「慈恵静淑玄君」の封号を授けた。

正統十二年(1447)、帝は天師が幼いことを気にかけ、お家騒動を起こして天師を脅かす輩を取り締まるよう命じ、張家内部の事は天師の祖母に監督させ、外部との接触は賛教・掌書に補佐させることとした。また、既に刊行された『正統道蔵』を賜い、龍虎山の大上清宮に奉納して供養した。正統十三年(1448)、帝は天師を大善殿に召し、宝冠と金の文官服を賜った。

正統十四年(1449)一月一日、帝は天師に星辰壇で祭祀を執り行うよう命じた。三月、天師が暇を告げて龍虎山へ帰ろうとすると、帝は引き留めた。六月の夏、雷が宮殿の装飾を直撃し、雨が十日間止まなかった。帝が天師を召して問うと、天師は帝に慎みを以て暮らし、辺境の防衛を怠らないよう助言した。帝が祈晴斎醮を営むよう命じ、天師が檄文を書いて雷神を召すと、藍の爪に赤い羽根の巨大な鷹が風を従えて蓬莱門で鳴き、檄文を掴み取って雲に上って行った。人々が顔色を変えて愕然としていると、天は晴れて雲一つ無くなった。祠官から報告を受けた帝は喜び驚いて天師に褒美を賜った。七月の秋、オイラトが辺境を侵したため帝が親征し、皇后は天師に保安斎醮を宮廷の庭園で営むよう命じた。八月に明軍は敗退して帝が捕虜となった。九月に景泰帝(1449−1457在位)が即位した。

景泰元年(1450)八月の秋、帝は天師を宮廷に召して様々な事を諮問した後、保鎮国祚斎醮を大徳観で営むよう命じると、儀式の最中に天が花を降らし雲が光り輝く瑞祥が現れたので、帝は喜んで褒美を賜った。景泰二年(1451)二月、帝は五百人の道士に度牒を与えた。景泰三年(1452)冬、帝は天師に斎醮を宮廷の庭園で営むよう命じ、儀式の後、仁智殿で宴席を賜った。景泰四年(1453)春、風雲雷雨壇で儀式を執り行い、朝天宮で斎醮を営むよう命じた。

景泰五年(1454)夏、帝は天師に封号を加えて「正一嗣教沖虚守素光祖演道崇謙守静洞玄大真人」とし、天下の道教を掌るよう命じ、符籙を私製・偽造して民を惑わせて金儲けに利用する行いを禁じるお触れを出した。

景泰六年(1455)春、帝は天師を文華殿に召して雷法について尋ね、符を書くよう命じた。符を見た帝は喜び、「神明の威光は代替わりしても衰えることが無い。そなたは良い跡継ぎだ!」と言い、人々はこれを栄誉とした。四月、帝が天師に金籙・黄籙の二大斎醮を霊済宮で営むよう命じると、儀式の最中に数万人が美しい雲が道壇を覆い、五色の岩が傘のように回り、鳳凰と鶴が群れて飛んでいるのを見た。祠官から報告を受けた帝は喜び、天師に封号を加えて「正一嗣教沖虚守素紹祖崇法妙契玄機弘悟大真人」とし、天下の道教を掌るよう命じ、天師の妻に「志和履善沖静玄君」の封号を授けた。また、玉冠・圭の帯玉・衣服を賜い、工官に法剣を作るよう命じ、役人に龍虎山へ護送させて帰らせた。

帝が病に罹り、オイラトの捕虜となっていた正統帝が釈放されて天順帝として復位し、天順と改元された。天順元年(1457)二月、帝は天師を宮廷に召し、無事に釈放されたことを天に感謝する報謝斎醮を営むよう命じ、手厚く褒美を賜った。六月、改めて封号を加えて「正一嗣教沖虚守素紹祖崇法安恬楽静玄同大真人」とし、天下の道教を掌るよう命じ、天師の妻に「沖和恭静玄君」の封号を授けた。七月、帝は符籙の偽造や天師の家系を偽る行為を禁じるお触れを出した。

天順三年(1459)冬、帝は天師を宮廷に召し、宮廷の庭園で宴席を賜い、再び太上延禧諸秘籙の伝授を命じた。天順四年(1460)春、帝は天師に天壇の祭祀に同行するよう命じた。帝は天師を斎宮に召して金の練衣を賜い、天師の母に「太玄君」の封号を授けた。

天順五年(1461)四月、帝は龍虎山に使者を派遣して天師を宮廷に召し、大内玄天祠で斎醮を営むよう命じると瑞兆が現れた。七月、承天門で火災があり、帝は朝天宮で除災の斎醮を七日間営むよう命じると、川の神が応じて堀の水が溢れた。帝は喜んで天師を賞賛し、冠・服・剣・器を弟子たちを含め身分に応じて賜った。天師は帝に天下に大赦を発するよう上奏した。天順六年(1462)三月、天師が暇乞いをすると、帝は臣下に護送を命じて馬と船を賜った後に龍虎山へ帰らせた。

天順八年(1464)一月、成化帝が即位した。春、帝は天師を宮廷に召した。帝が玉座に座ると天から変な声が聞こえたので、天師に符を書いて対処するよう命じると、翌日の明け方に見た事の無い鳥が敷物の下で死んでいた。帝が臣下に亡骸を朝天宮へ持って来るよう命じると、亡骸は火を発して燃えてしまい、それ以来、変な声は聞こえなくなった。帝が眠っていた時、足が少し痛んで気になったので、慌てて蠟燭で照らしてみると、人の指ほどの黒い瘢痕があった。帝が天師に使者を派遣すると、天師は符水を作り瘢痕に注ぐよう進言し、その通りにすると瘢痕は消えて痛みは治まった。帝が奉天殿に赴いた時、空から木や石が落ちて崩れるような音がしたので、帝は恐ろしくなり、天師に斎醮を営むよう命じると夕方には音が止んだので、帝は天師に手厚く褒美を賜った。六月、帝は天師に封号を加えて「正一嗣教体玄悟法淵黙静虚闡道弘化妙応大真人」とし、天下の道教を掌るよう命じ、天師の母に「慈和端恵貞淑太玄君」の封号を授け、手厚く贈り物を賜り、龍虎山へ帰らせた。

成化元年(1465)九月、帝は天師を宮廷に召し、文華殿で宴席を賜った。成化二年(1466)一月、帝は臣下に命じて宮廷の優秀な馬を天師に賜い、さらに文様が施された錦・朱の舃・上等の酒・珍しい果物や海産物を天師の誕生祝いとして賜った。翌日、天師は帝に謝辞を述べ、帝は宮廷の庭園で天師に宴席を賜った。十一日、帝は天師に風雲雷雨壇で儀式を執り行うよう命じた。二月、帝は天師に大徳観で昇真斎醮を営むよう命じ、符籙の偽造や天師の家系を偽る行為を禁じるお触れを出し、賛教・掌書などの官職を任命して教団の教務を援助した。

成化三年(1467)秋、帝は天師を宮廷に召し、大善殿で会い、相伝の印・剣を見せるよう命じた。帝は繰り返し眺め、「この貴重かつ慎ましやかな物に神霊があるとは。」と言い、宴席を賜った。十一月、帝は天師を大善殿に召し、護国安民に努めるよう求め、「正一嗣教大真人府」の金印・「陽平治都功印」の玉印・親筆の「大真人府」四字の額を賜い、封号を加えて「正一嗣教体玄崇黙悟法通真闡道弘化輔徳佑聖妙応大真人」とし、天下の道教を掌るよう命じた。また、臣下に命じて蟒衣・玉帯・冠・履・剣・法器・圭の帯玉を賜い、手厚く褒美を与え、人々はこれを誉とした。

成化五年(1469)四月、張懋嘉と姪の張留煥が朝廷に赴き、天師が凶暴かつ淫乱を尽くして法を犯しており、甚だしくは少しでも怒らせた者は符籙偽造の濡れ衣を着せられ、鞭打ちに処されて殺され、死ななければ私獄に繋がれ、今までに四十人余りが殺されており、一家三人が殺された時もあったと告発した。張懋嘉の配下には多くの道士がいるにも関わらず、帝が御家争いに強制介入し、天師一族が帝の権力を盾として継承に異論を唱える者を無理矢理抑え込んだため、張家の内部には仇敵の争いが生まれ、殺し合う事態にまで悪化していた。刑部は天師を死刑に処すべきとし、儒学者らは頻繁に行われる斎醮を問題視し、帝の寵愛は行き過ぎであるとし、誤った道で国を惑わした極悪人を許してはならないと帝にしばしば陳情した。刑部は再三奏上したが、帝は天師の死刑を免じて杖百叩きに処し、一族と共に粛州へ放逐した。天師は除名処分となり、妻と共に封号が取り消された。

成化九年(1473)一月、帝は天師を釈放して龍虎山に帰らせた。天師は帰ると龍虎岩の下で庵を結んで三年間穀物を断った。成化十一年(1475)、天師は民の身分とされた。成化十三年(1477)のある日、天師は頌を書き終わると端座して羽化した。亡骸を持ち上げると衣のように軽かった。四十三歳の時であり、二十六年に渡る在位であった。