正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

48.張諺頨

四十八代天師の諱は諺頨(彦頨)、字は士瞻、号は湛然、張玄慶の長男である。四十七代天師は、張諺頨が生まれる前、夢の中で星冠を着け剣を帯びた神人が庭に梓を植えるのを見た。弘治三年(1490)五月十八日、張諺頨が生まれた。成長すると四十六代天師の気風を備えていた。

弘治十四年(1501)、張諺頨が十二歳になって間もない時、四十七代天師と共に宮廷へ赴いた。帝は張諺頨と会って人並外れた者であると知り、四十七代天師を引継いで天師となることを認め、封号を加えて「正一嗣教致虚沖静承先弘道真人」とし、天下の道教を掌るよう命じ、宴席を賜った。三宮は二人を召し、それぞれの身分に応じた褒美を贈った。龍虎山に帰った天師は道の教えを熱心に学び、道法に精通し、幅広く経典を渉猟した。書法に巧みで晋代の書風が見られ、手に入れた人は珍重した。地元の人々から称えられる程の親孝行者であった。

弘治十八年(1505)四月、上清宮が火災に遭ったため、天師は再建を帝に上奏し、帝はこれを認めた。五月に帝が崩御した。

正徳帝が即位し、正徳帝元年(1506)春、天師は帝の即位を祝うために宮廷へ赴いた。帝は天師を召し、「そなたの先祖は神仙ではないのだろう。神仙は不老不死だから、今なお生きていて道の教えを説いていると聞いているが?」と問うので、天師は、「帝王の中で神仙に勝る者は古の聖王である堯・舜と聞いておりますが、聖王の道が廃れた今となっては、不老不死を得た者など天子から庶民に至るまで見たことがありません。願わくは彼らの道を慕い実践することで、天地にも等しい長寿が与えられんことを!私のような者が不老不死を得たところで、世の中に何の得などございません!」と言い、暇乞いをして龍虎山に帰った。

正徳三年(1508)、帝は度牒を発行して道士たちに与え、天師に封号を加えて「正一嗣教致虚沖静承先弘道真人」とし、天下の道教を掌るよう命じた。同年、天師は弘治帝が許可した上清宮の再建を行いたいと帝に奏上したので、帝は臣下を派遣して監督に当たらせた。

正徳七年(1512)、帝は天師を宮廷に召し、泰壇の祭祀に同行するよう命じ、蟒衣・玉帯を賜った。

正徳十五年(1520)、帝は南へ巡行した。ある者が、牛首山と後湖に物の怪がいると言うので、帝は天師を行在宮に召して物の怪を除くよう命じた。天師が法術を用いると物の怪はバラバラになって死んでいた。帝は大いに喜び、都にお供をするよう命じた。

嘉靖帝が即位し(1521)、嘉靖と改元した(1522)。天師は帝の即位を祝うために宮廷へ赴いた。帝は天師に道について問い、天師は「清心寡欲」を旨として答えた。帝は天師を称えて多くの褒美を賜った。また、特別に天師を龍虎山へ護送し、太上諸秘延禧諸階法籙を献上するよう求めた。

嘉靖二年(1523)、帝は天師に安遠候の柳文の娘を妻とするよう命じ、都内外の守備官に命じて出迎えをさせた。天師に封号を加えて「正一嗣教懐玄抱真養素守黙葆光履和致虚沖静承先弘化大真人」とし、天下の道教を掌るよう命じ、上清宮の道士である伝徳岩・邵啓南を賛教、金永寿・?望奎を掌書などの官職に任命した。また、天師に太和山で金籙延禧福国裕民羅天大醮を七昼夜、帝の跡継ぎを祈願する儲醮を三昼夜営むよう命じた。『勅政建金籙大醮之碑』に記されている。

三月、帝は龍虎山に臣下を派遣し、歴代皇帝の勅書を保管する「勅書閤」、天帝と諸仙を祀る「万法宗壇」、歴代天師を祀る「天師家廟」を建てさせて整備した。これにより山水は輝きを増して中国屈指の福地となった。

五月、帝が予め作らせていた三清・四帝・星宿の金像が完成したので万法宗壇に安置させ、「掌法仙卿」の銀印と象牙の「宗伝之印」を賜った。

上清宮の食糧が豪農らに脅し取られる事件が起きたので、天師が帝に報告し、帝は戸部に調査を命じ、龍虎山の財産を侵さないよう禁令を出した。

嘉靖七年(1528)に帝は天師を宮廷に召し、星辰壇の祭祀に同行するよう命じ、帝の親筆と美しい刺繡のされた織物を賜った。嘉靖十年(1531)に帝は天師を宮廷に召したが、道教と朝廷との密接な関係に反感を抱いていた役人らに妨害されて到着が遅れた。帝は天師から遅れた理由を聞くと、各巡安御史に役人らを調査して処分するよう命じた。

嘉靖十一年(1532)三月、臣下に命じて上清宮の改修を命じ、天師に斉雲山で帝の跡継ぎを祈願する斎醮を営むよう命じた。五月、天師は弟子の李得晟に斎醮を七昼夜営ませたところ、翌年、帝の世継ぎが生まれた。

嘉靖十六年(1537)、帝は天師を宮廷に召した。再び役人らに妨害されて到着が遅れたため、天師は帝に遅れを詫びた。帝は、「天師は道教を掌る者であるからこそ宮廷に召しているのだ。先帝はしばしば役人に天師の護送を命じてきた。それなのに今、どうして役人の中に逆らう者がいるのか?関わった者が処分を受けていないのであれば、今後はより厳格に職務を遂行させよう。役人と兵が共に天師の護送に当たることとし、遅れは認められないことを心せよ。」と言った。この年の冬は雪が降らなかったので、帝が天師に宮廷の庭園で雪を乞う祈禱をさせると効験があった。帝は大いに喜び、金冠・玉帯・法器・銀を賜った。

嘉靖十七年(1538)正月、帝は天師に内皇壇で金籙大斎を営むよう命じた。儀式の最中に白い鶴が壇を飛び回り、美しい雲が太陽を抱く瑞兆が現れたので、帝は天師に褒美を賜った。天師が龍虎山に帰る時、帝は役人に護送するよう命じた。

二月、帝は天師に斉雲山で帝の世継ぎが生まれたことを天に感謝する報謝斎醮を営み、皇太后の長寿を祈願するよう命じた。六月に祈願を終え、帝は金を賜ったが断わって受け取らなかった。帝は懇ろに褒美を賜ったが、天師は自分の物とせず、その都度貧者に施したので、人々からの賢者として尊敬された。後に天師が雲斉山を龍虎山の管轄とするよう帝に上奏したので、帝は「玄天太素宮」の額を賜い、徴税を免除し、山を侵さないよう禁令を出した。この年の冬、皇太后が亡くなった。翌年(1539)、帝は天師に親筆の書簡を送って哀感の意を示した。

嘉靖十八年(1539)一月、天師の跡継ぎである張永緒が新居で生まれた。帝はこれを聞くと大層喜び、張永緒に親筆の書と三朝洗兒の儀式を授け、祝儀として金を賜った。嘉靖十九年(1539)、帝は張永緒が幼いことを気にかけ、天師を宮廷に召して親子を離れ離れにさせることを危惧し、暫くの間は召さないようにし、子育てに集中させることとした。

嘉靖二十年(1541)、天師の妻が亡くなったので帝に報告した。嘉靖二十一年、帝は五百人の道士に度牒を賜った。嘉靖二十二年(1543)、帝は特に江西の巡撫都御史に撫州での符籙の偽造を取り締まるよう命じた。

嘉靖二十八年(1549)、帝は天師と張永緒を共に宮廷に召した。船が銭塘を通ると、川岸のぬかるみで人々が川を渡るのに難儀していたので、天師が符を投げると、ぬかるみはたちまち消えた。徐州を通ると、水が枯れて船が進めなくなったので、天師が詩を書いて投げると夜に水位が上がった。

天師一行が都の門に着くと、帝は臣下に出迎えさせて労をねぎらい、張永緒に蟒衣・玉帯・金を賜った。翌日、帝は天師一行と会い、便殿で宴会を賜い、歴代天師の名簿を見せるよう命じ、親筆で張永緒の名を賜った。天師は帝に今後の事を張諺頨に引き継がせる旨を伝え、帝はこれを認めた。天師は暇乞いをして龍虎山へ帰った。

天師は生まれつき聡明で、忠孝大義に篤い人となりであり、元来これという好みは無かったが、性命の学を探求しており、家にいる時は寒さ暑さに関係なく、帝を念じて香を焚き礼拝し、門を閉ざして天に長寿を祈っていた。士大夫との交流を楽しむ性格であったが、時事について語ることは無かった。行脚する僧侶や道士と喜んで会い、費用を出し惜しみせず礼節を以て彼らを受け入れ、特に道士と会う時は大層手厚くもてなした。帝から公卿の位を授けられた時、天師は分不相応であると辞退し、人々は謙虚な姿勢に親しみを覚えた。

嘉靖三十九年(1560)十一月、天師は泰山に遊ぶ夢を見た。十六日の朝に起きると沐浴して衣を着替え終わると、香を焚いて肘掛けに寄りかかって羽化した。七十一歳の時であり、四十九年に渡る在位であった。

帝が訃報を聞くと、大層悲しみ、使者を派遣して公爵の位に相当する大規模な葬儀を執り行わせた。疊山書院を墓地と定めて万余りの黄金と共に葬るという、前代未聞の特別待遇であった。