三十二代天師の諱は守真、字は遵一、三十一代天師の長男である。母の呉氏が夢の中で、「これを食べなさい!生まれる子は天師として相応しい者となる。」とお告げを受けて仙界の果物を与えられた。その後、妊娠して十九ヶ月で張守真を生んだ。生まれつき純朴・温厚な人柄で、成長しても欲の心が少なかった。
高宗皇帝の紹興十年(1140)に教団を継いだ。毎年の三元日に経籙を伝授し、四方から多くの人々が天師の下を訪れた。邪を除いて毒を鎮め、道の教化を盛んにした。紹興二十九年(1159)の二月六日、帝は号を賜い「正応先生」とした。
乾道六年(1170)、孝宗皇帝は天師に、毗陵に物の怪の憑いた木があるので鎮めるよう命じた。天師が木のもとへ赴くと一夜の内に雷がその木を抜いた。十月十三日、太上皇(高宗)は天師を召し、十一月十三日に詔を出し、徳寿宮へ赴いて養魚荘に滞在した。三日以上も天師を召して座を賜い、道法について大層熱心に諮問した。十一月十九日、帝は天師を召して座を賜い、金を賜い、斎の食事を賜った。天師が自宅に帰って以後も、帝は頻繁に賞賜を送った。十二月十九日、太上皇が天師に月台に斎醮を建てて祈祷するよう命じると神々が応じた。
乾道七年(1171)、江涛衝が決壊し、帝が天師に宮廷内で斎醮を営ませると神々が応じた。帝は再び天師を召し、上清三洞諸品の宝籙が世に流伝して以後、やや長い年月を経ていることから、天師に金を賜い、道録院に経籙の版木を作らせて延祥観で伝授させ、版木を龍虎山に持って帰るよう命じた。太上皇は象牙の笏と景震剣を賜い、さらに親書の「清静」・「陰符」二経を与えた。
乾道八年(1172)、剣・印を子の張景淵に託した。以後、身を退け、物事に囚われず安穏として世事を意に介さなくなった。孝宗皇帝の淳煕三年(1176)の十月三十日、弟子たちに、「三十代天師が青城で伝えた約束がある。今こそ往くべき時である!」と言って、病気になること無く羽化した。演法観の西近くに埋葬した。三十三年に渡る在位であった。