正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

64.張源先

六十四代天師の諱は源先、祖父の張元曙(春森)は六十二代天師から三番目の弟であり、張源先は父の張克明と母の汪清秀の次男である。民国二十年十二月二十九日、江西省の貴溪に生まれ、十余歳で父は死去した。幼い頃から聡明で学問を好み、書法に通じていた。温和な人柄で人と接する時は真心を込めて接し、相手の話に耳を傾け、清廉さを保ち威儀正しく振舞った。

民国五十八年(1969)に六十三代天師が羽化し、長男の張允賢が若くして亡くなり、次男の張允康は中国本土に留まっており、養子の張美良が付き添っているだけであった。養子の継承について道教界の意見は分かれた。ある者は法律で子として認められている以上、養子にも天師継承の資格があると主張した。またある者は血脈継承の伝統を重視し、養子に張家の血脈が無い以上、天師継承の資格は無いと主張した。当時、台湾で張家の血脈を持つ者は張星景・張欣政・張源先・張潤生であり、皆に継承の資格があった。張源先は軍人の出身であった。十数年前に六十三代天師が天師継承への備えを理由とし、張源先を退役させるよう国防部に申し立てていたが、まだ許可が出ていなかった。六十三代天師が羽化し、台湾の張家一族による家族会議が開かれ、張源先が天師の位を継ぐことが決定された。民国五十九年(1970)、張源先は陸軍中尉を退役し、九月二十八日に台南天壇で正一金籙襲職醮典を営み、天師に就任した。しかし、張美良は母の陳月娟と共に法器・法印・経書などを張源先の羽化まで手放さなかった。

張源先は天師に就任し、直ちに天師の系譜を修訂して自らの志を示し、六十二代・六十三代天師の事跡を増補し、民国六十六年(1977)に『歴代張天師伝』『天師世家簡介』『青城山上的天師洞与上清宮』を出版した。民国六十八年(1979)四月二十七日、蒋経国総統が天師を総統府会客室に招待した。

民国七十六年(1987)七月、蒋経国総統はアメリカの外圧・フィリピン独裁体制崩壊・民主化運動の高まりなどの時勢の変化を受けて戒厳令を解き、三十八年間に渡る戒厳期が終了した。

民国三十八年(1949)、国民政府が台湾に樹立された際、政府は儒教の伝統を保護する名目で孔子の子孫を礼遇すると同時に、道教の法統を保護する名目で六十三代天師に生活補助費を支給していた。天師には民国六十一年から月五千元の生活補助費が与えられ、後に月一万元に引き上げられていた。民国七十七年(1988)六月、天師が内政部に書簡を送り、中央政府の予算削減のために天師への生活補助を廃止するよう申し出たことで、この制度が廃止された。天師の清廉さが分かる事跡である。

天師は、道の教えを広めるための団体を設立し、天師門下有志一同を団結させることが重要であると強く認識し、民国八十一年(1992)に『中国嗣漢道教協会』を設立し、第一・二・四代理事長と第三代栄誉理事長に就任し、道教界を結束させ、道の教えを力強く提唱した。民国八十四年(1995)、天師は南投県国姓郷柑子林の四百余坪の土地を購入し、「中国道教嗣漢天師府」を設立して祖天師と道教諸神を祀った。

台湾と中国本土の交流が解放されるにつれ、道教界の交流も多くなっていった。民国八十年(1991)六月の初め、天師は甘粛省平涼市の崆峒山道教協会からの求めに応じ、三十六名の門下と共に訪問し、四川省成都の青城山天師洞などの祖天師の聖跡に参詣した。民国八十七年(1998)、天師はマレーシアのペナンの道教界からの求めに応じ、現地で伝度・奏職の儀式を執り行った。

民国八十八年(1999)九月二十一日、台湾中部で大地震が発生し、天師は弟子たちに寄付を募り、集めた五十万元を被害が甚大であった草屯鎮に二十万元、国姓郷に三十万元送って災害復興を支援した。同年十一月、天師は被災者のために台中市東峰公園に道壇を設けて「全国道教連合祈天護国祐民斎醮道場」を営み、犠牲者の霊を弔った。翌年(2000)一月二十五日、天師は草屯鎮運動場に道壇を設けて「千禧祈福大会」を営み、国と民のために幸福を祈願した。また、この年に天師が七十歳の大寿を迎えたため、各地の弟子たちが天師の福寿を祝った。

天師の就任以後、諸廟が改築されると、開香の斎醮に天師が招かれることが多くなった。天師の足跡は海外にも及び、民国九十三年(2004)十二月十一日から十九日に至るまで、タイの道教界の求めに応じて暹羅代天宮の三朝祈安清醮大典の開香を執り行った。民国九十六年(2007)十月六日、天師は南鯤鯓で挙行された平安鹽祭・祈福消災大法会からの臨席の求めに応じた。同年十一月十二日、台南市興済宮で挙行された登刀梯・授籙・奏職・帰依・伝度の儀式で三師の首を務めた。天師はこのようにして道の教えを広め正した。

民国九十七年(2008)十月十七日、肝臓の病により南投の自宅で羽化した。葬儀当日、総統府は人員を派遣して弔辞を伝え、門下の弟子が道いっぱいに列を成した。七十八歳の時であり、三十九年に渡る在位であった。