四十代天師の諱は嗣徳、号は太乙、別の号は太玄子、張与材の次男、張嗣成の弟である。寛大で温厚な人となりで、琴・棋・詩・酒を好んで楽しみ、親戚を尋ねた時には春風が吹き込んで来たかの如く、周りの雰囲気が明るくなった。詩文に長け、若い時に北方へ遊んで『灤京八首』を作り、兄の張嗣成と共に『題葉氏四愛堂』の詩を作った。また、竹や鳥の絵を描いた。元の順帝至正四年(1344)に教えを継いだ。張友霖を教団の講師とした。
至正十一年(1351)に龍虎山の大上清宮が焼失した。
至正十二年(1352)に天下で動乱が起きたため、弟子の舒惟寅に命じて義勇兵を集めて龍虎山を守らせたため、隣の郡からの兵に脅かされることなく、民はこれを頼りにして安心して暮らした。五月に恵宗が天師に封号を加えて「太乙明教広玄体道大真人」とし、三山の符籙と江南の道教を掌るよう命じて印章を授けた。
同年(1352)十月に軽い病で羽化した。翌年の至正十三年(1353)に帝からの使者が来たが手遅れであった。亡骸を排衙石に埋葬した。九年に渡る在位であった。