正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

51.張顕祖

五十一代天師の諱は顕祖、万暦二十六年(1598)に万暦帝が賜った名である。天啓六年(1626)、天啓帝は新しい名を賜い「顕庸」とした。字は九功、張国祥の長男である。万暦十年(1582)に生まれた。幼い時、井戸に誤って落ちてしまい、気付かれないまま一夜を過ごした。翌日、水を汲みに来た者が気付いて助け出された。井戸は非常に深く広かったが、衣冠は何事もなく足だけが濡れていたので、人々は驚嘆して神異であるとし、神の助けによるものだと言った。生まれつき仁孝・礼儀を兼ね備えていた。読書を好み、夜遅くまで勉学に励んだ。常に弟子に対して、「学問とは井戸を掘るようなもので、井戸が深くなる程、土を掘り出し難くなる。志を固く持って努力しなければ、泉源には辿り着けない。」と、儒者にも当てはまるような事を言っていた。

万暦帝は政治に倦むようになり、三十年に渡って朝廷に出なくなり、閣僚に欠員が出ても補充せず、治世がまともに行われなくなった。万暦三十九年(1611)に五十代天師が羽化した。通常、天師の継承は喪の期間が終わるのを待たずして行われるが、孝行者の張顕祖は喪の期間を守って動きを見せず、万暦四十一年(1613)に喪が明けて後、万暦四十二年に教団を継いだ。

万暦四十八年(1620)に泰昌帝が即位したが、ひと月して急死したので天啓帝が即位した。天啓五年(1625)、帝は張顕祖を天師として認め、天啓六年(1626)に封号を加えて「正一嗣教光揚祖範沖和清素大真人」とし、天下の道教を掌るよう命じた。また、父の五十代天師に「太子少保」、母の謝氏に「静淑柔恵玄君」の封号を授けた。

五十代天師は上清宮の修復工事の最中に羽化したので、天師がその志を果たすため、朝に夕に絶えることなく工事が続けられ、二年後に完成させた。天啓七年(1627)に明末の農民蜂起が始まった。帝が崩御したので八月に崇禎帝が即位した。

崇禎年間は内憂外患に見舞われた。天災・反乱が続発し、北方からは満州族が侵攻していた。崇禎元年(1628)に北方で日照りが起き、四月、帝は天師に雨乞いの祈禱を命じた。北方の満州族が万暦四十六年(1618)に反乱を起こし、国号を「後金」とした。崇禎二年(1629)十月、後金の皇太極は十万の兵を率い、蒙古軍と共に北京に侵攻した。崇禎三年(1630)に天師は明軍のために兵糧を援助した。六月、帝は天師の法術を試そうと思い、雪を乞う祈禱をするよう命じた。天師が七日に都の道壇に登り祈祷すると、十二日に雪が降った。

天師はあっさりとした志の持ち主で、このような時勢の中で修練に打ち込んだ。静室を作り「梧緑軒」と名付け、自らを「浴梧散人」と号し、「浴梧会」を結成し、毎日弟子たちと先天太極と心性の学を考究した。著書に『三教同塗論』があり、天師の教えの概要を窺い知ることができる。また、『金丹弁惑』・『浴梧詩集』数巻は、修養の道筋を迷い無く示している。

天師は人に施すことを好み、凶作の年には周辺の民に援助を送った。時に盗賊が龍虎山一帯を狙っていたが、天師が法術を用いて退けたお陰で龍虎山一帯の平穏が保たれた。

崇禎九年(1636)、天師は印・剣を息子の張応京に授けた。この年は大飢饉となり、天師は備蓄の粟を周辺の民に援助して多くの民が受け取った。帝は天師に封号を加えて「太子少保」とした。

清の順治十八年(1661)、天師は端座して羽化した。八十歳の時であり、十七年に渡る在職、十二年に渡る在位であった。康熙三十年(1691)に葬儀が執り行われた。