正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

2.嗣師張衡

二代嗣師張衡の字は霊真、またの字は平子・子平、祖天師張道陵の子である。幼い頃より祖父の張堪と共に南陽に住んでいた。張家は代々、留候張良の末裔であり、南陽の名家とされていた。若い頃に文官としてよく仕え、地方行政事務官を勤めた後に都の太学に入り、五経・六芸に精通した。文才の誉れは高まる一方であったが驕り高ぶらなかった。

漢の和帝の永元年間(89-105)に孝廉に推薦されたが断り、その後、幾度も官僚として召されたが応じず、南陽に帰って太守主簿の職に就いた。当時、天下は穏やかであったため、王侯貴族らは驕奢の限りを尽くしていた。張衡は班固の『両都賦』を模倣して『二京賦』を作って風諫とした。時世に合わせて作るよう心掛けたため、完成に十年かかった。

才知に長け、天文・陰陽・暦法・算術を研究し、道教経典を好んで読んだ。漢の安帝が張衡の博学ぶりを耳にしたため、召されて郎中に任命された。後に太史令に任命され、陰陽の学を極め、天文器を精密にした渾天儀を作り、天文を詳しく明らかにするために『霊憲』『筭罔論』を著した。漢の順帝が即位した後に隴西の刺史に任命され、再び太史令に任命された。栄達を求めず、太史令の職に長年就くことに生き甲斐を感じていたため一旦は辞任したものの、五年後にまた就任した。

漢の順帝の陽嘉元年(132)に地動儀を作った。形は酒樽に似て、外側には銅球を咥えた八匹の龍が、下側には龍に向かって大きく口を開けた八匹のカエルがいる。地震が起こると、八匹の内の一匹の龍の口が開き、銅球がカエルの口の中に落ちて音を出して地震が起きたことを知らせるようになっている。また、球を落とす龍は常に八匹の内の一匹だけなので震源の方角と所在を知ることができる。試しに揺らしてみると常に正しく動作した。このような器具は過去の書物に一切記されていない前代未聞のものであった。陽嘉三年(134)に一匹の龍が口を開いて球を落としたが揺れを感じなかったので、都の学者たちは一体どういうことかと疑問に思ったが、数日後に使者が来て、隴西で地震が起きたと報告したため、皆が地動儀の正確さに感服した。これ以後、史官に地動儀を扱わせて震源を記録させるようにした。

政情が徐々に乱れて臣下の専横が目立つようになったため、帝に上奏して改めるよう諫言した。光武帝による漢朝の中興以来、儒者らが予言に依拠して邪説を弄する風潮があったが、聖人の法に背く虚妄としてこれを批判し、再び帝に上奏した。その後、侍中に任命され、帝の相談役としてあらゆる物事を論じた。ある日、天下に害を為しているものは何かと帝から問われた時、自身の専横を糾弾されるのを恐れた宦官らに睨みつけられて身の危険を感じたため、話をはぐらかして退出した。その後、糾弾が自身に及ぶことを恐れた太監が宦官らと共に讒言したため、遂に帝から疎まれて遠ざけられた。張衡は、帝王の相談役となった途端に凋落した自身の姿を振り返り、吉凶の移り変わりは神秘的で知り難いとし、『思玄賦』を作って思いを述べた。

帝から疎まれた張衡は、漢の順帝の永和年間(136-141)の初めに河間の相として左遷された。当時、河間の王は驕奢の限りを尽くして掟を守らず、豪族らの専横が甚だしかった。しかし、張衡がこの地に赴任して以後、厳格な統治と法の整備によって腐敗官吏や豪族らが取り締まられたため、各々が分限を守るようになり、政治の道理を心得た人であると称賛された。三年間務めた後、上書して辞職を申し出た。永和四年(139)、道を修めるために蜀に入って陽平山に住み、世俗の物事に関わらず、呼吸法を実践して断食した。

漢の桓帝の永壽二年(156)に教団を継ぎ、弟子たちに経籙を伝授して正一道を盛んにした。道法を説く時の言葉の簡明さは聞く者を感心させた。人々の病を治す時は山上で祈祷し、三通の文書に病人の姓名と罪に服して懺悔する旨を記し、各々を天に捧げ、地に埋め、水に沈めた。これが「三官手書」と呼ばれるものである。

張衡は子の張魯に道法を伝授し、「祖天師は天地を心とし、神霊を念とし、誠敬忠孝を本とされたお方である。天下を遍く巡って妖魔の害を取り除いたことにより、太上老君から親しく教えを授けられ、正一道をお立てになった。この教団を継ぐからには、誠の心無くして道は得られず、敬の心無くして徳は修められず、忠の心無くして君主には仕えられず、孝の心無くして親には仕えられないものと心得よ。お前は教団を後世に伝え、人倫を重んじ、祖天師の法を守らねばならないぞ。」と、戒めて言った。張魯は弟子たちを従えて礼拝し、「祖天師は、教団を後世に末永く存続させるという大志により、教団を血族に相続させる決まりとし、今、この私が道縁によりその役を仰せ付かることとなりました。祖天師の法を後世に継承するのは容易いことではありませんが、殊更に無理な計らいをせず、道の感化を用いるようにいたします。」と言った。

張衡は二十四年に渡って在位し、後に「嗣師」と称された。漢の霊帝の光和二年(179)の一月十五日、妻の盧氏と共に白昼の陽平治で天に昇って行った。陽平治の門に彼の功績を称える一対の碑が立てられたことから、陽平治の又の名を「嗣師治」という。

張衡は文人としても著名であり、『二京賦』『玄思賦』『帰田賦』などの辞賦は名作とされ、後世に「漢賦四大家」の一人に数えられ、明の張溥により『張河間集』が編纂された。明の算命学『子平八字』は張衡に由来するといわれる。1970年、国際天文学会が月の裏側のクレーターを「張衡(Chang Heng)」と命名し、1964年に南京紫金山天文台によって発見された太陽系1802号小惑星が1977年に「張衡(Zhang Heng)」と命名された。今の河南省南陽市石橋鎮に張衡博物館がある。