正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

50.張国祥

五十代天師の諱は国祥、字は文徴、号は心湛、張永緒の甥である。父は張永紹、母は夏氏である。生まれつき並外れた容姿で、世俗離れした気風があった。

嘉靖四十五年(1566)、張永緒の一人息子である張天佑が、麻疹により五歳で亡くなったので、甥の張国祥が教団を継いだ。十二月に帝が崩御して隆慶帝(1567−1572在位)が即位し、隆慶に改元した。道教を庇護した嘉靖帝とは反対に、隆慶帝は道教を敵視し、あらゆる道教儀式が国家の悪弊として禁じられ、道士の任命は罪に問われることとなった。

隆慶二年(1568)、江西の長官が龍虎山の租税と賦役逃れを指摘し、道教を世のためにならない、民に害を及ぼすものであるとし、帝に対処を訴える上奏をした。帝はこの訴えを聞き入れ、天師の爵位・真人の封号を取り消し、真人印を没収し、上清宮の管理職として認めるに止めて五品とし、銅印を与えて使わせることとした。朝廷から贈られた宮廟の額は撤去され、教団所有の財産や穀物は徴税の対象とされ、賦役は五品として免除される以外のものは全て課されることとなった。隆慶六年(1572)に帝が崩御して万暦帝が九歳で即位した。

万暦五年(1577)三月、天師は隆慶帝が没収した真人印と封号を元に戻すよう帝に上奏した。帝は、天師の封号は慣例として代々授与されていること、天師の家系も代々受け継がれていることを認め、封号を四十九代天師から受け継ぐことを認める旨の書簡を送り、租税と賦役を二品の位相当に免除し、侵すことのできない決まりとした。四月、帝は天師に大高殿で受籙延禧斎醮を営むよう命じ、衣・剣・法器を賜い、相伝の印・剣を見せるよう命じた。また、隆慶帝が没収した真人印を返し、「龍虎山玄壇」の銅印を与え、親筆の「宗伝」の額・玉の「宗伝」の印を賜った。

万暦七年(1579)八月、帝は天師を二品の扱いで宮廷に召した。帝は門から道士の装束を着けた天師の姿を見て、世俗離れした者を宮廷に召すのは申し訳なく思い、以後は特別な理由が無い限りは天師を宮廷に召し出すのを止め、帝の誕生日に龍虎山で長寿祈願の斎醮を営むだけで良いこととした。孔子の子孫も宮廷に召し出すのを止めとした。九月、帝は国庫から銀を拠出して朝天宮の真人府を改修し、親筆の「真人府」の額を賜った。十月、帝は天師に駙馬都尉の娘を娶らせ、定国公に婚礼を取り計らうよう命じ、費用は国庫から拠出した。十二月、皇太后は天師に斉雲山と武当山で斎醮を営み、帝の世継ぎの安産を祈願するよう命じた。

万暦八年(1580)一月、天師は斉雲山で斎醮を三昼夜営み、次に太和山で玉籙大斎を三昼夜営んで皇太后の安産を祈願した。

万暦九年(1581)、天師が帝に祖壇廟が老朽化して損壊しており、儀式を執り行うのに支障が出ていると帝に上奏したので、帝と両宮の皇太后・后妃・公主は銀を賜い、臣下に工事の監督を命じた。

万暦十二年(1584)、帝は天師に三年に一回宮廷に参るよう命じたが、諸臣と共に朝廷に参会することは認めなかった。

この頃の帝は政事に倦み、「聖人は神の道によって楽に世を治めたという。道教は神の道ではないのか?」と尋ねたので、天師は「聖人は天下を治める際、心の内に道を思い、己を慎ましくして政事に携わったからこそ、神が応じて道によって天下を教化したのです。今までに励むこと無く世を治められた例などありません。清静無為の道の教えは国を助けて福をもたらし、民を助けるためのもので、楽をして世を治めるための手段ではありません。」と言って帝を諫めた。

帝が天師に雪を乞う祈祷をするよう命じると、たちまちの内に効験があった。帝は喜び、天師に金冠・玉帯を賜った。

万暦十七年(1589)、帝は天師に封号を加えることを伝えた。万暦二十三年(1595)五月、帝は天師に封号を加えて「正一嗣教凝誠志道闡玄弘教大真人」とし、天下の道教を掌るよう命じ、妻の謝氏に「静淑玄君」の封号を授けた。また、父の張永紹に「正一嗣教崇謙養素真人」、母の夏氏に「静恪玄君」の封号を授けた。

万暦二十六年(1598)四月、帝は日照りを心配し、天師に雨乞いの祈祷をさせ、金山黒龍潭の龍王廟で道壇を設けて雨乞いの儀式を十七日から二十日まで執り行わせた。十八日に長雨が降り、十九日から二十日に大雨が降り注ぎ、都の周辺は十分に潤った。帝は大いに喜び、雨乞いの褒美として玉帯と銀を賜った。十月、帝は天師の長男に「顕祖」の名を賜い、結婚式の費用と礼装を与えた。万暦二十七年(1599)に日照りが長引いたので、帝は天師に命じて龍に雨を乞う祈祷をさせ、さらに黒龍潭廟を祀らせた。

万暦二十七年(1599)二月、帝は親しく道蔵経を龍虎山の上清宮に奉納した。万暦二十九年(1601)七月二十九日、帝は天師に公爵の朝服・祭服を与えて着用を認めた。

万暦三十年(1602)三月、天師の祖父に「正一嗣教秉誠崇範真人」、祖母の楊氏に「安淑玄君」の封号を贈った。十一月、天師の母が、斎醮を営んでいた天師と会うために都を訪れたが、滞在先の旅館で亡くなってしまった。帝は不憫に思い、特別に一品の格式の葬儀を執り行って弔恤とし、使者を派遣して祭文を送った。

万暦三十二年(1604)三月、乾清・坤寧の両宮が完成し、帝は天師に乾清宮で謝土大醮を七昼夜営むよう命じた。十一月、帝は天師に六十歳の誕生日を迎える皇太后のための斎醮を営むよう命じ、儀式の後で労をねぎらい、特別に賞賛の言葉と賞賜として銀などを贈った。

天師は都における十三年間の滞在を通じて帝の厚い寵愛を受けた。万暦三十三年(1605)、天師は龍虎山に帰った。道中、嶧県で湖が凍って船が立ち往生したため、天師が符を書いて湖の神に檄を飛ばすと、氷が解けて船が進めるようになった。嶧県の長官が碑にこの神異を記し、湖廟に碑文がある。

天師は文章に長けていた。四十二代天師は歴代天師の言行録を蒐集して『漢天師世家』一巻として纏め、宋濂が洪武九年(1376)に序を書き、永楽年間に四十三代天師が校訂した後に刊行したが、天師は万暦三十五年(1607)、四十九代天師までを纏めて四巻とし、家系を整えて詳細を示して祖先の功績を称揚した。また、『大明続道蔵』(万暦続道蔵)を編纂して校訂し、同年(1607)に刊行した。さらに、『皇明恩世録』九巻・『龍虎山志』三巻を編纂し、その記載の詳しさは歴史考証に資するものとなっている。

万暦三十七年(1609)に貴谿で洪水が起こり、上清宮の殿宇が損壊した。天師が帝に報告すると、帝は銀を賜い再建させた。工事が進んでいる最中、万暦三十九年(1611)、天師は何事もなく平穏に暮らしていたが、ある日、華陽真人が天師を導くのが見え、天師は端座して羽化した。江西の金谿県明陽橋に勅葬し、道観を建てて「明陽観」として祭礼を執り行った。四十六年に渡る在職、三十五年に渡る在位であった。