正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

36.張宗演

三十六代天師の諱は宗演、字は世伝、号は簡齋、張可大の次男である。宋の理宗淳裕四年(1244)十一月十七日に生まれた。天性物静かで、幼い時から頭の回転が大層速かった。宋の理宗景定三年壬戌(1262)の年、十九歳の時に教団を継いだ。『帝令宝珠五雷祈祷大法』を学んだ。宋の咸淳年間(1265−1274)に信州の上饒で干ばつが起こり、地方長官の唐震に頼まれて雨乞いをすると雨が降った。

元の至元十二年(1275)、南宋は滅亡の危機にあった。四月に世祖フビライは、兵部郎中の王世英と刑部郎中の蕭郁を詔書と共に派遣して天師を召した。

元の至元十三年に世祖フビライは南宋を滅ぼして中国を統一し、四月に再び天師を召した。八月に天師は弟子数十人を連れて謁見した。フビライは、臣下に郊外まで天師の一行を出迎え、客人の礼を以て扱うよう命じた。天師が謁見するとフビライは、「昔、己未(1259)の年、私が王一清をそなたの父のもとへ派遣した時、『あと二十年もすれば天下は治まる。』とのお告げがあったが、その通りになったな!」と言い、座を賜い、宴会を開き、色々と話した後、斎醮を宮廷で営むよう命じた。

至元十四年(1277)正月に帝は天師に玉冠・玉圭・金糸の文官服を賜い、号を賜い「演道霊応沖和真人」とした。また、二品の銀印を授けて江南の道教を掌るよう命じ、度牒を出して道士を育成することを認めた。街道沿いに道録司を置き、州に道正司を置き、県に威儀司を置き、全て天師の管理下にあるとされた。江南に詔を発して宮観の賦役の制度を復活し、長春宮にある周天醮の修復を命じた。天師は龍虎山に帰りたいと思ったが、国の師たるもの帝の近くにいることが必要と考え、弟子の張留孫を都に留まらせて天師の代理を務めさせた。帝は崇真宮を都に建て、張留孫を住まわせて祭祀を掌らせた。

至元十七年(1280)七月に帝は宦官を遣わして江南の名山を歴訪させ、徳の高い道士を求め、さらに香と供物を持たせ、龍虎山・閤皀山・三茅山に詣でて斎醮を営むよう命じた。十月に帝は天師を宮廷に召した。至元十八年(1281)三月に帝は宮中で天帝への奏上を行うよう命じ、儀式は七昼夜に及んだ。七月には寿寧宮で同様の儀式を五昼夜に渡って行わせた。十月、枢密副使の張易らが道書を検証し、ただ『老子道徳経』のみ老子の作と言えるが、それ以外の道書は後世の偽書であり焼却すべきと奏上し、帝はこれに従った。

至元二十三年(1286)に臨川の道士である雷思齊の著『易図通変』のための序を書いた。

至元二十四年(1287)二月に帝は使者に香と供物を持たせ、龍虎山・閤皀山・三茅山に詣でて斎醮を営ませ、天師を宮廷に召した。至元二十五年(1288)十二月に斎醮を三日間営むよう命じた。

帝は天師に玉印と宝剣を渡して見せるよう命じ、手に取って見ると、「今日までに王朝は止め処なく幾度も変わってきた。天師の剣・印が代々伝わり今に至るとは言うものの、果たしてその神明はあるのだろうか!」と長い間感嘆した。

天師は龍虎山を整備し、演法観を二度修繕し、瑞慶観・慈寿観・西華道院を新たに建てた。晩年は悠々自適に自然を友とし、俗世を忘れたかのようであった。

ある日、道士が天師に謁見して、羽化は白(辛)ウサギ(卯)の時であると告げた。至元二十八年辛卯(1291)十一月十六日、白ウサギを献上する者がやって来た。天師は弟子に、「今まで明日というものがあったが、今日でそれは終わりだ。」と言い、すぐさま頌を書いて羽化した。四十八歳の時であり、三十年に渡る在位であった。剣を澥田源に埋葬した。長男である張与棣は墓誌の碑『解真三十六代天師壙記』を作り、時の詩人である劉辰翁が墓誌の銘を書いた。