正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

1.祖天師張道陵

名門の家に魁星降る

祖天師の姓は張、初めの名は陵であったが、道に入って以後、改名して道陵と名乗った。字は輔漢、沛豊邑の人、張良から数えて八世の子孫である。張良は昔、下邳に遊び、黄石公と出会って仙書を授かった。後に漢の高祖劉邦の配下として漢朝樹立の功績を成し、留候に封ぜられた。道心を養い穀物を断ち、赤松子を師友とし、東園公より飛歩の秘訣を得た。諡を文成候という。彼は自身の功績を誇示することなく、ひっそりと暮らし、血筋を後世に伝えていった。

張良の長男は張不疑、張不疑の次男は張高、張高の長男は張侗、張侗の長男は張無妄、張無妄の長男は張仁、張仁の長男は張覚、張覚の長男は張啓。張啓の長男は張勘、字は君游、又の字は大順、後に「桐柏真人」として封じられており、張道陵は彼の長男である。

張勘は漢朝に仕え、かつて妻の劉氏と共に呉へ赴任した。漢の光武帝の建武十年(34)の一月の満月の夜、劉氏は天人が北斗の魁星より降りてくるのを見た。身長は一丈余り、刺繍が施された衣を着ており、彼女に蘅薇の香を授けた。天人が去って後も彼女の衣服や部屋のあらゆる所に何とも言えぬ香りが漂い、何ヶ月経っても消えなかった。五月十八日、張道陵は呉の天目山に生まれた。黄色い雲が部屋を覆い、紫の気が庭に満ち溢れ、部屋は太陽のように光り輝いた。天人が残した香りは、その十日後に消えた。

成人した時、身の丈は九尺二寸、太い眉に広い額、緑の瞳に赤い頭頂、高い鼻に四角い顎、隆起した眉間には鼻筋が長く通り、後頭部は隆起し、手を垂れると膝まで届く程に長く、顎と頬には美しい髭を生やしていた。龍のように座り、虎のように歩き、下半身は豊満で、上半身は引き締まり、人から見ると荘厳な容姿で、親友から見ても同様であった。

実直・寡黙な人となりで、古を好み、経・史を広く極め、天文にも通じていた。七歳の時に『道徳経』二編を十回余り熟読してその旨を会得した。天文・地理・占術の書の妙義を極め、あらゆる古の書を学び、読めばたちまち会得していった。彼について学ぶ者は千人余りにも上った。天目山の南方三十里と北西八十里の所に講堂がある。臨安の神仙観・餘杭の通仙観がそれである。

世を捨て儒を捨て道に入る

張道陵は漢の明帝の時、太学の書生となって賢良方正直言極諫科に推挙された。永平元年(58)、二十五歳の時に巴郡江州の県令の職を授かって官吏の身となったが、道の修練を積んで仙人となる志を抱いていた。漢朝末期の世に政治との関係を持つことは身に危険が及ぶと考え、二十六歳の時に辞職した。

洛陽の北邙山に遊び、後に蜀に入った。山川の風光明媚を楽しんだ後、陽平山に隠遁し、練気の書を得て、苦節何年にも渡って道を学び養生に努めた。隷上山で弟子に養生の法を教授し、学ぶ者は数百人に上った。

漢の章帝が召しても応じず、漢の和帝が即位し、彼が有道の士であることを聞き、三品の印綬と四頭立ての馬車を授けて「太伝」として召したが、病と称して応じなかった。三度求められても応じず、使者に「人生百年は光陰の如くあっという間です。父母・妻子の恩愛は厚くとも永遠に続くものではありません。この世の虚しき有り様を知る私を今、帝は私を臣下にしようと召しておられる。ただ心穏やかにして寡欲であれば天下は自然と治まるのに、どうして私を臣下になさる必要があるのですか?」と言った。時に漢の和帝の永元四年(92)であった。

漢朝の政治の乱れは一段と極まり、心休まる時が無く、弟子の教授を続けていたとはいえ、朝廷は学問を軽んじるようになり、世の中を危機から救うには力足らずであった。ある日、弟子たちに、「幼い頃から学問に親しみ、経典を研究して得たことの多くは世のため人のために役立ててきた。高貴な身分や財力を得ることなど私にとって何ら値打ちも無い。これらは他者から与えられた形骸に過ぎず、塵や泡のように消えてしまう。それよりも雑念を捨てて修練し、道に従って仙人となり、雲に乗って龍を御し、白昼の内に昇天する方が良いではないか。人生には会別・生死あり、死者の魂は冥界に行き、この世に二度と戻りはしない。それよりも、道の在り方を仙人に尋ねた黄帝、霞を食べた仙人赤松子・王子喬のように、白昼の内に昇天して永遠の長寿を得た方が良いではないか。古の道を成した者たちは皆、輝かしい地位や巨万の富を遠ざけたという。何とも良いことではないか。そもそも世俗の栄達と世の救済は両立できない。今、お前たちは学んだ事に基づいて各々が進む道を決める分別を持つべき時である。人の情は極まり無いものだが、集まり極まれば散り、楽しみ極まれば悲しみが来るもので、避けられない世の道理である。私は今、山海に遊んで世俗の塵埃から離れ、幽玄の中に住んで学問を究めたい。お前たちと別れることになるが、今後どうするつもりかね?」と言った。弟子の王長者・習天文・通黄老が彼の下に留まり、その他の弟子たちは去って行った。以後、ひっそりと暮らして世俗の物事に関わらなかった。

雲錦に丹を煉り龍虎現る

張道陵は淮河に遊んで桐柏の太平山に住んだ。その後、弟子の王長と共に淮河より鄱陽に入って楽平の雩子峰に登った。道中、山の神が会いに来て礼拝し、山から立ち去るよう求めてきた。張道陵は山の神に麓の廟で大人しくするよう命じたが、山中で丹を煉っている時に二羽の鶴を差し向けて邪魔をしたので、結局立ち去ることにした。淮河を上り雲錦山に向かった。王長は書を背負って歌いながら付いて行き、共に雲錦山に住んだ。

夫人が張道陵の下を訪れたので共に雲錦山に隠遁した。年を経る毎に天の導きを得るようになった。黄帝九鼎神丹の術を得て後、玄々の道を修め、神丹を煉り始めた。また、神虎秘文を魯洞の壁で見つけた。神丹を煉ってから一年目に紅い光が部屋を照らし、白虎が符文をくわえて持って来て傍らに座った。二年目に五色の雲が鼎を覆い、夜も蝋燭を必要としないほど明るく、彷彿と青龍・白虎が現れ、常に鼎の周りを取り囲んでいたので、山の名前を「龍虎山」とした。三年で神丹ができた時には五十歳になっていたが、容貌は若さを増し、あたかも三十歳の人のようであり、足腰もしっかりしていた。

神丹ができたものの、まだ服用せず、王長に「そもそも過去に仙人となった者は、生者・死者両方に功徳を及ぼし、国を助け家を治め、利を与え害を除いて後に昇天したものである。今の私は功徳をわが身のみに受け、民に何ら一つの恩恵を与えておらず、昇天して仙人になるべき時ではない。蜀には毒気・邪気が満ち溢れ、哀れなことに民は知らぬ間にその害に蝕まれている。戦いに備えて今暫くは自身を清め静めて修練に励みなさい。道を極めて元気を養うのだ!」と言った。西仙源を訪れた時に秘書・秘文を得て、天帝より五岳を治めて万霊を使役するよう命じられた。

ある日、王長に「五岳は仙人が多く、蜀の三郡は名山が多い。全てに行かなくては!」と言って共に北方に行き、嵩山の奥深くで九年に渡って住んだ。修練に励んでいると、刺繍が施された衣を着た使者が現れ、中峰の石室に『上三皇内文』『五岳真形図』などの書があるとのお告げがあった。それに感ずるところがあり、斎戒を七日間行って石室に入った。踏んだ場所の足音が異なる部分があったので掘ってみると、制命の術を記した書が見つかった。それを熱心に学んだことで、鬼神を召喚し、空を飛び、遠くの音が聞こえるようになり、分身・変化の術を身につけた。こうして、「その昔、禹王は国土を開発し、獣が悪さをしないように山や湿地を焼き払い、万世に渡ってその功績は語り伝えられている。今、地の秩序は失墜して妖魔は多く蔓延っているが、私は未だ民に何一つの恩恵を与えておらず、道の功徳は未だ成就していない。聞くところによると巴蜀の悪気が災いをなしているというから、行ってこれを取り除くこととしよう。」と宣言した。

鶴鳴に老君より命を受く

張道陵は西蜀の名山・名跡を再び訪れ、その後、陽平山に入って修練に励み、陽神を肉体から出入りさせ、空を飛んで見下ろせるようになった。神丹が成って二十年経っており、陰の功徳が著しくなったので服用した。時に七十歳であった。西城山に入り、祭壇を築いて神々を祀って五帝に降臨を願った時、地元の人が、「西城と房陵の間にいる白虎の神が人の血を好んで飲むので、民は毎年、人を殺して生贄として差し出しています。」と言ったので、白虎を召し出して戒めたが、言うことを聞かないので殺した。また、ある人が「梓州に大蛇がおり、山中の穴に住みつき、動けば山の石が震えるほど大きく、よく毒の霧を吐き、その中を旅人が少し歩いただけで、たちまち毒にあたって死んでしまいます。」と知らせてきたので、法術で大蛇を封じて二度と悪さができないようにした。

張道陵が鶴鳴山に入って修練に励んでいた時、太上老君は彼の行いに心を打たれた。漢の順帝の漢安元年(142)の五月一日の夜、山中でぐっすり眠っていると、太上老君が馬車に乗って空を飛んで山の南東に降り、仙人たちに向かって、「道陵は困難の中で修行に励んでおり、わしはその志に心を打たれた。そこで彼に治身の秘籙と飛騰長生の道を授けようと思う。今、あの者は眠っており、わしに気付いていない。自分から目を覚ますだろうから、お主らは起こさなくてよいぞ。」と言った。その時、張道陵は夢の中で、夜光の鎧を着けて通天の頭巾をかぶって命魔三気の幢を持った武人と会い、「さあさあ!道陵よ。眠っている場合ではないぞ。尊いお方が馬車で長いことそなたをお待ちだ!」と告げられて夢から覚めた。張道陵は驚いて起き上がり、袖を払って衣を振るい、邪鬼が惑わしに来ているのではないかと疑った。

しばらくすると馬車の鈴の音と飾りの触れ合う音が近づき、天上から音楽が微かに聞こえ、香しい花々が地を覆い、紫の雲が空に満ちていた。目を見張り東の方を見上げると、紫の雲の上に五匹の白龍に引かれた白色の馬車が見え、青い袖の着物に朱の衣を着て、金の鎧を着けて戟を持った者が二十四人、左右に整列して馬車の前に向かい合い立っていた。天女たちは美しい絹の着物の上に花の衣を羽織り、豊かな髪は肩にかかり、各々が幢を持ち、先端に付いた玉の札には金色の文字で「命魔の幢」と書かれていた。その後ろに青い衣を着て玉の輪を付けて裾を引いた紺色の頭の二人の童子が並び、各々が左に青龍、右に白虎を描いた旛を持ち、先端に付いた金の札には朱色の文字で「召仙の旛」と書かれていた。その後ろに朱の袖に金の鎧を着けた二人の武人が並び、各々が三気十絶の旌節を持ち、先端に付いた丹色の札には白色の文字で「倒景の節」と書かれていた。前には刺繍が施された衣を着て王冠をかぶった者が一人、日月星辰の文様と「太上三五斬邪の剣」という銘が刻まれた三五斬邪の雌雄二神剣を捧げ持ち、馬車の右には霞の衣を着て金の冠をかぶった者が一人、「陽平治都功の印」と彫られた玉の印を捧げ持っていた。その他の護衛や侍従は数え切れない程であった。

白色の馬車の上は九色の霞で覆われていた。しばらくして霞が晴れると、馬車に身の丈が六丈余り、手に五明の宝扇を持った純白の玉のような清楚な容姿の神人が一人乗っているのが見え、背に八景の円光が辺りを照らして直視できない程に輝いていた。馬車の前の者が、「恐れることはない。太上老君である。」と告げたので、張道陵は笏を持って礼拝するばかりであった。太上老君は「わしが昔、蜀の山に降りた時、二十四の治を立てて二十八宿の監獄を置き、天の官吏らに人の悪事を裁かせて生死・禍福を掌らせた。だが哀れなことに、この世に生まれた人々の魂は苦に縛られ、先祖から続く罪科が降り積もり、身を滅ぼして道を成就できないままでいる。そこで、わしは福庭を置いて仙人たちに各々分担して人の生死・禍福を掌るよう命じた。あれから数劫を経た今となっては仙人の数が足らず、治の管理がおざなりになり、最近では六天の悪魔や悪霊が住み着いてしまった。昼と夜、人と霊の分別が失われたことで奴らは凶暴になり、民に多くの災いをもたらしているのは見るに堪えない。そなたがわしの代わりに邪を正し、人と霊の分別を設け、各々が昼と夜の区別を守るようにし、治の管理を取り戻してくれれば、民にとって有り難いことで、そなたの功徳は計り知れないものとなる。そうなれば、わしはそなたを仙人の一人として認めて真人とする心積もりでおる。引き受けてくれまいか?」と言った。

張道陵はお辞儀して感謝し、「私は暗愚なものでありますが、今、万劫にも得難い幸いを得て大道に巡り合うことができ、あたかも生き返ったかのような心地です。謹んでその旨を承りお引き受け致したく存じます。決して疎かには致しません。」と言った。そこで、太上老君が天の官吏を呼ぶと、しばらくして西方より五色の気が盛んに沸き起こり、中から龍と虎に乗り、朱の衣を着て黒の頭巾をかぶり、剣を帯びて圭を持った身の丈が数丈の二人の仙人が現れ、刺繍が施された衣を着て黒の頭巾をかぶり、剣を帯びて戟を持った百二十人の従官が護衛し、進み出て礼拝した。太上老君は、「天官たちよ!直ちに紫陽南宮の玉宸内殿を開いて三天正法を持って来なさい。道陵に伝授するから。」と言った。

少しして南方より二十四の生気が沸き起こり、美しく鮮やかな光が空に満ち溢れ、中に童子が列をなし、玉を束ねて金の文字で書かれた籙が入った玉の函を捧げ持っていた。太上老君は、この三五都功諸品の経籙を授け、「千日後に閬苑で会おう。」と言った。また、正一盟威の秘籙と三清衆経九百三十巻・符籙・丹竈の秘訣七十二巻を授け、三五斬邪の雌雄二神剣・陽平治都功の印・二儀交泰の冠・駆邪の法衣・魚の皮衣・方形の裳裾・朱の靴などを賜い、教団の儀礼と戒律を定めて国を助けて教化するよう命じ、千日後には邪鬼も退散するであろうと告げたので、張道陵は礼拝して感謝した。

張道陵は籙を授かった後、鶴鳴山で秘文を研究し、道法に基づいて修練を重ねた。五雲の気を取り込む行法を修めている間、山中にある石の鶴が鳴いて飛び立ったことがあった。また、清和玉女が彼の行いに心打たれて清和の気を取り込む呼吸法を教えた。これを長く学ぶことで、内に五臓を見て、外に三万六千の神を招くことができるようになった。精邪を分別し、籙の三歩九迹・交乾履斗の道を修練することで、北斗七星ですら彼が夜空を指すと思い通りに現れては消え、あたかもそれが当然であるかのようであった。

青城に魔と戦い盟誓を結ぶ

太上老君より使命を与えられた張道陵は蜀で悪魔との戦いに身を投じた。その当時、八部の魔将らと億万もの手下の悪魔らが西蜀の青城山におり、城や市場を造り、人間に化けて人々と交わり、疫病を流行させていたが、悪魔らが巧みに化けるので、人々は正体を知る由も無かった。

漢安二年(143)の七月一日、張道陵は盟威の秘籙を携えて青城山に行き、瑠璃の高座を据え、左に大道の元始天尊、右に三十六部の真経を安置し、十絶の霊旛を立て、その周囲を法器を鳴らして焼香しながら廻り歩いた。さらに道徳経などの諸経を唱えて龍虎・神兵の軍団を町に召喚した。

悪魔らは刀と弓を持ち襲い掛かったが、張道陵が指を立てると、大きな蓮の花が現れて行く手を阻んだ。そこで悪魔らは火を放って焼き殺そうとしたが、張道陵が再び指を立てると、火は悪魔らに燃え移って前に進むことすらできなくなり、遠くから、「お前はなぜここに来た?さっさと山を下りないと、すぐに殺してやるぞ。」と叫ぶより他になかった。張道陵が、「お前らは人に悪さをするから立ち退いてもらう。西方の不毛の地にでも行け。」と言い返したので、魔将らは各々が千万の兵馬を率いて鎧と刀で身を固めた手下らに山を取り囲ませた。王長は恐れをなし、「魔将の軍勢に囲まれました。一体全体どうなさるおつもりですか?」と言ったが、張道陵は、「たかが魔物など恐れるに足りない。丹の筆を持って来なさい。」と言い、王長が持ってきた筆を執って降魔の陣を宙に書くと、手下らは倒れて死んでしまった。魔将らも困惑し、土下座して命乞いした。張道陵は黙ってしばらく聞いていたが、また筆を執って逆さまに陣を書いて手下らを生き返らせ、「前に来い。処分を申し渡す。」と言った。魔将らが各々前に進み出ると、張道陵は、「直ちに山から立ち去り、病を流行らせて人を殺すのを止めよ。今後、この地の民は私の仲間とする。もしも逆らうならば根絶やしにするぞ。」と言った。すると魔将らは、「民は皆、自分から進んで我らに従ってきたのだ。それをお前に奪われる謂れは無い。民の半分は我らのものとし、後の半分をお前にやろう。」などと言うので、張道陵はそれを認めず叱りつけた。

魔将らは六天魔王の下に会し、再び百万の手下を率いて戦いを挑んで山を取り囲んだ。王長が、「魔将らに道理は通用しないようです。どうなさるおつもりですか?」と言うと、張道陵は笑い、「恐れることなどない。奴らは降参するから。」と言い、再び丹の筆で降魔の陣を書くと手下らは皆死んでしまい、六天魔王も倒れて起き上がれず土下座して命乞いをした。張道陵は一顧だにせず、また丹の筆で降魔の陣を書くと、青城山が真っ二つに裂けて泉が天まで吹き上がった。悪魔らはもはや山に近づくことすらできず、西方に立ち去り二度と戻らないと約束するので許して欲しいと命乞いした。張道陵は彼らを許し、筆を執って逆さまに陣を書いて六天魔王と魔将らを立ち上がらせ、前に来るよう言いつけた。しかし、吹き上がった泉が大きな川となって行く手を阻んだので、王長に巨石を持って来させて川へ渡して橋とした。

六天魔王と魔将らが橋を渡って張道陵の前に拱手して立つと、張道陵は、「もし、お前たちが筆で石を割ることができるなら民の半分をやろう。割ることができなければ万里の彼方へ立ち去れ。」と言った。魔将らは張道陵から筆を受け取って符を書いたが石は全く割れなかった。張道陵は魔将らをしっかり懲らしめてやろうと思い、「お前たちは民の半分を自分たちのものだと言い張っている。ならば法力比べで決着をつけて勝ったら望み通りにしてやろう。」と言うと、魔将らはそれに応じた。張道陵が火の中に入ると足元に青い蓮の花が現れて火から守った。魔将らが同じようにしても火に焼かれるだけだった。張道陵が木に向って歩くと分かれて通れるようになり、通り抜けると元通りに合わさった。魔将らが同じようにしても木にぶつかるだけだった。張道陵が川に入ると黄色の龍に乗って川から出た。魔将らが同じようにしても溺れるだけだった。張道陵が石に向って歩くとすり抜けた。魔将らが同じようにしても僅か一寸めり込むだけだった。張道陵が鉄の山に向って歩くとすり抜けた。魔将らが同じようにしても僅かに半寸めり込むだけだった。張道陵が神符に咒いをして左手で指し示すと悪魔らは死に、右手で指し示すと生き返った。魔将らが同じようにしても何も起きなかった。魔将らが八匹の大虎となって張道陵に襲い掛かると、張道陵は二匹の獅子となって大虎を追い返した。魔将らが八匹の龍となって張道陵に襲い掛かると、張道陵は金の翼が生えた鳥となって龍の目を啄んで追い返した。魔将らは巨神となって荒々しく雄叫びを上げ、両手で鞭を持って張道陵を打とうとすると、張道陵は巨大な冠を着け、円光を背負い、蓮華の台に乗り、十二種の無量の相を備えた身長七十二万丈、幅五十二万囲の金剛力士となって金剛杵と拳法で巨神を追い返した。魔将らが十二丈の高さに飛び上がると、張道陵は百余丈の空中に飛び上がった。魔将らが五色の雲を作って光が全く見えなくなる程に天地を真っ暗にすると、張道陵は五色の美しい太陽となって辺りを眩しく照らして雲を消し飛ばした。張道陵は魔将らの術が尽き果てたことを見届け、重さ千余斤もの巨石となって上から押しつぶそうとした。魔将らは逃げられなくなり、遠方に立ち去って二度と民に悪さをしないから許してくれと命乞いした。

そこで、張道陵は五方・八部・六天の悪魔らを青城山の黄帝壇に集めさせ、人間は日が昇った明るい時に行動し、悪魔や鬼神は夜の暗い時に行動するよう定め、六天魔王は北方の鄷土に帰らせ、八部の魔将とその手下は西域に追放し、疫鬼らは戒めた上で許すこととした。張道陵は丹の筆を執り、「この筆を使ってお前たちを滅ぼすこともできる。人と鬼神の分別を定め、昼と夜に各々分かれて行動するよう定めたのは、お前たちのためでもある。」と言って盟誓を結んだ後、石を折って割符として天地日月の形を刻み、「天地神明に誓い、お前たちが過ちを繰り返した時、必ずや天誅を加え根絶やしとする!」と言った。また、神印によって悪魔らの市場を封鎖して人との交流ができないようにした。この時より人間界と神霊界は別のものとなり、人間と鬼神は別々に暮らすこととなった。

盟誓は結ばれたものの、中には躊躇して青城山から立ち退かない悪魔らもいた。そこで、張道陵が咒いを唱えて空中に上がると、風雨と共に仙人や兵馬兵刃が天上より降りて来たので、悪魔らは散り散りになって逃げて行った。こうして悪魔らに荒らされた地は清められて人々が暮らせるようになった。また、占領されていた二十四の治を二十四の福庭として解放し、二十八宿の正気を地に降ろして通じさせるために四つの治を加えて二十八宿と対応させた。各々の治には六十歳の甲子生まれの人を配属し、隠官と仙官を一人ずつ置いて人々の禍福を掌らせた。治の運営で功績や徳行のあった者、真摯に祭祀を執り行い、天に申し開きをして過ちを懺悔した上で福徳を願い、先祖を丁寧に祀る者は、仙官がその功績を記録し、天に名を奏上して福寿を増やした。忠孝の道に背き、人を騙して道理に背き、悪事を繰り返し行いを改めない者は、陰官がその罪を記録し、地府に報告して福寿を減らし、または追放を命じ、善悪の応報をはっきりと示した。

張道陵は正一の教えで人々を教化して三万六千の外道の悪魔を除いて邪や偽りを絶ったため、人々は進んで師と仰いだ。符水による病気平癒をよく行い、民に誠敬忠孝を教えた。病や災難に遭った者に米・絹・糸・綿・日用品・紙・筆・薪の類を供えさせ、自身の罪過を懺悔させて二度と繰り返さない旨を誓わせると、たちまち病は癒えて災いは除かれた。また、清廉を教えとして民を治めるよう努め、刑罰をやたらと用いないようにした。こうして、民は張道陵に喜んで従い、彼の教化によって進んで悪事を働く者はいなくなり、盗賊は姿を消し、病や災いも無くなった。

殺しの過ち十年の咎

漢の質帝の本初元年(146)、張道陵は山から徹底して悪魔を追い払おうと考えて閬州の雲台山に行ったところ、山水と峰々が実に美しい風光明媚の地で邪気が全く見られなかったので、王長に、「この山が私の昇天の地となるのだ。」と言い、そのまま住むことに決めた。九還七返の功を修め、一心に修練に励んで四十九日経った時、かつて耳にした馬車の鈴の音、飾りの触れ合う音、天上の音楽が再び聞こえてきたので着物を整えて礼拝していると、以前のように太上老君が大勢の侍従と武人を率いて空に現れたものの、長いこと空を回って地上に降りて来なかった。張道陵は再び礼拝して嘆き悲しむ余りに倒れ伏し、「私はかつて、あなた様からの命を受けて直々に秘文を授かり、天の命により悪魔と戦い人々を教化し、その功が成就したので隠遁しておりました。今、御再臨なさりながら降りて来られないということは、私が大道から見放されて死んだも同然ということですか?」と言って手を挙げて再び倒れ伏した。太上老君は使者を通じ、「お前の功績は九真上仙にも匹敵する。ただ、そなたは蜀へ行って悪魔から福庭を取り返し、人間界と霊界とを分離して世を清めて教化した一方、法術を用いて必要以上に悪魔を殺し、祭壇で風雨を起こし、鬼神をこき使い、星々を操り、山川を破壊した。お陰で地は殺された悪魔の死体で満ち、天空は殺気で穢された。生命を重んじる道から外れた所業であり、天帝はそなたの責任を問うておられる。そういうことだから、そなたと会うことはできないし、昇天を認めることなどできない。今は隠遁して、わしが冥府に行って申し開きをし、そなたの罪を許してもらい、責任を免じてもらうのを待っておれ。」と言った。

それを聞いた張道陵は嘆き悲しみ、「それなら今すぐ死んだ方がましです。」と言った。すると太上老君が、「東方に向かって目を閉じなさい。」と言ったので、張道陵が言われた通りにすると、黄色の衣を着て黒の頭巾をかぶった者が、『三八謝罪滅黒簿超度玄祖章』という題目の三巻の書物が入った玉の函を捧げ持っているのが見えた。張道陵が礼拝してそれを受け取ると、太上老君は、「この書を徹底して修めなさい。日月・二十八宿・二十四気と陰陽の源である神々に謝罪すれば、冥府の帳簿に記された罪状は消え、そなたの名は清められ、祖先は七代に遡って仙界に昇るであろう。謝罪した後、この書を三千六百日修めれば、そなたは仙界に昇り、わしと上清の八景宮で会えるであろう。」と言って天上に帰って行った。張道陵はお告げに従い、弟子たちと共に鶴鳴山に帰り、祭壇を設けて日月を祀り、三元・八節・本命・元辰・庚申・甲子・三会・五臘の日には斎戒して儀式を執り行い、経を唱えて灯火を燃やし、日月星辰・天地陰陽に謝罪し、九玄七祖に犯した罪を懺悔した。三年の後、太上老君が再び天に現れた。

張道陵は弟子たちと数日間集まった後、共に主簿山へ向かった。彼の功績は自然と天界にまで聞こえ、多くの瑞応が見られた。ある日の夕方、神人が玉璧を授け、「仙人の皆様から、これをあなたに授けて徳を讃えるよう命じられました。」と言った。本竹山に居を移した時には仙人たちが『霊宝上経』を授けた。またある日には、神人が呼んで連れて行って『清静経』を授け、三日後に天へ帰って行った。

趙昇を七回試し弟子に示す

張道陵は弟子たちと共に渠亭山に居を移した。この時、数十人の弟子が従っていた。ある日、張道陵は弟子たちに、「私に従ってくれるのは有り難いが、お前たちには俗世への未練が残っており、世を捨てるまでには至っていない。行気・導引の術や草木を食べて養生する方法を学ぶことはできても、業が重く道との縁が薄いままでは、昇天して仙人になる方法を私の下で学ぶなど三世早い。世を捨てる覚悟の無い者は出て行きなさい。」と言い、さらに王長を指差して、「功徳を積んできたお前だけが道を成就できる!」と言った。また、「東方に住む趙姓の男もまた、道を成就して天に昇るべき者だ。千里を遠しとせず、翌年の一月七日にここに来るであろう。」と言い、その男の容貌や身長などを詳しく語った。

漢の桓帝の建和二年(148)の一月七日、張道陵は「今日の午の刻頃に趙姓の男が来る!」と言い、果たしてその通りに趙昇という男がやって来た。姿形は全て語った通りであった。弟子が彼の来訪を告げると、張道陵は、「ああ!来たか。だが、すぐ受け入れるつもりは無い。」と言って七回試すことにした。まず、わざと面会を断り、唾を吐いて辱めて追い払い、志の確かさを試したが、趙昇は去ろうとせず、門前に四十日に渡って留まったので、ついに認めて面会を受け入れた。次に、山にある黍畑を獣から守るよう命じておき、法術で美女を出して貞操を試した。美女は趙昇に会い、「私は遠方からの旅の者ですが、夜になり道に迷ったので泊めてください。」と言って趙昇の側に座ったが、趙昇はきちんと正座して美女に手出しをしなかった。次の日、美女は足が痛いと言って去ろうとせずに化粧をして趙昇に迫ったが、趙昇は全く貞操を乱さなかった。次に、道端にお金と数十個の餅を置いて清廉を試したが、趙昇はネコババせずに通り過ぎた。次に、薪を取りに行くよう命じておき、法術で三匹の虎を出して勇気を試した。虎を見た趙昇は落ち着き払い、「私は遠方より聖人の門下に入って不死の道を求めている。お前は山の魔物としてこの私に挑むつもりか?」と言うと、虎はすごすごと去って行った。次に、市場の店に絹の反物を買いに行かせた。張道陵は事前に店主と示し合わせ、趙昇が代金を払った後で、お金を受け取っていないと嘘をつかせて寛容の心を試した。趙昇は店主と言い争おうとせず、自分の服を売って店主が要求する代金を払った。また、田んぼを守るよう命じておき、法術で乞食を出して慈しみの心を試した。乞食はボロボロの服を着て、ガリガリに痩せ、腫物が体全体にでき、口から悪臭が漂っており、趙昇に会うとお辞儀して食べ物を乞うた。趙昇はさっと顔色を変えて懐から握り飯を出して施し、他の食べ物も恵んであげた。ここまで六回、趙昇の信念を試したが、趙昇の心に揺ぎは見られなかった。

次に、張道陵は弟子たちと共に断崖絶壁の上にある展望台に登った。歩き回って歌を歌いながら深い谷間を見下ろすと、谷間にはとても美しい実をつけた桃の木が生えていた。張道陵が弟子たちに、「あの桃の実を取って来た者に道を伝えよう。」と言うと、二百人余りの弟子たちは谷間を窺うや否や冷や汗を流し、「あれを取ってくることなどできません。」と言って引き下がった。すると、趙昇が一人で進み出て来て、「師匠がお守り下さる場所に険しい所などございません。師匠がここにおられる限り、谷底に落ちて死ぬことなど無いでしょう。私が師匠より教えを受ける分相応の者であれば桃を取って来られるはずです!」と言って、崖から身を投げて桃の木の上に飛び下りたが、全く怪我すること無く、桃を懐一杯に摘み取った。そして、崖をよじ登って戻ろうとしたが、懐の桃が重くて登れないので、崖の上に二百個の桃を投げ上げた。張道陵は桃を受け取って弟子に一つずつ分け、崖の下の趙昇に向かって腕を伸ばすと、腕が伸びた訳でもないのに、趙昇は一気に引き上げられた。張道陵はおもむろに、「趙昇ですら心を正しく保ち、無事に桃を取って来た。今から私も下りて大きな桃を取って来よう。」と言ったので、弟子たちは引き留めたが、趙昇と王長は何も言わなかった。張道陵は崖から身を投げたが、谷底が見えないので無事に降りられたかどうか分からず、長い間待っても戻って来ないので、弟子たちは慌てふためいた。趙昇と王長はしばらく黙っていたが、「師匠は父同然のお方である。父がお亡くなりになった以上、私たちの居場所は無い。」と言って、共に崖から身を投げると、まさに落ちたその場所に張道陵がおり、美しい霞のかかった綺麗な林の中で宝玉の台座に上がり、目を閉じて正座していた。張道陵は笑い、「お前たちが来るであろうことは分かっていた。」と言って神丹と宝経の秘訣を授けた。その他の弟子たちは二日間、崖の上をうろうろするばかりであった。

陵州に神女を封じ塩を得る

ある日、弟子たちと共に陽山を眺めていると、白気が天にまで立ち昇っているのが見えたので、王長と趙昇に、「あの山には間違いなく妖怪が住んでいる。取り除かなければならない。」と言って陽山に入った。山の入り口で妖艶な容姿の十二の神女たちと出会ったので、なぜここにいるのか尋ねたところ、神女たちは、「実は、私たちはこの地の陰霊です。」と答えた。張道陵が、「この地に塩の泉があるはずだが?」と尋ねたところ、神女たちは、「以前は大湫にありましたが、毒龍が住み着きました。」と答えた。張道陵は法術を使って毒龍を呼び出したが、言うことを聞こうとしないので符を書くと、符は金色の翼の鳳となって塩の泉の上空を旋回し、毒龍は恐れおののいて逃げ出した。塩の泉は枯れ果てていたが、剣を突き刺すと元の通りに塩水が湧き出て、それを沸かすと塩が採れた。鳳は南山の上に留まったことから、後の人はここを鳳凰台と呼び、鳥は今に至るまで巣を作らないという。

十二の神女たちは各々、張道陵に玉環を捧げ持ち、「夫婦の契りを結んでください。」と言った。張道陵が十二の玉環を受け取り、手の中で径一尺余りの一個の玉環にまとめて地面に落とすと、たちまち深い穴ができて井戸になった。そうして、「この井戸の中に落とした玉環を取って来た者を妻としよう。」と言うと、神女たちは我先にと衣を脱いで井戸に飛び込んで玉環を奪い合った。張道陵はその隙に井戸に蓋をして封じ、「お前たちは井戸の神となれ。人に悪さをしないよう二度と出て来られないようにしてやる。」と言った。

張道陵は塩の泉を治めた後、狩人と道で出会い、必要以上に生類を殺さないよう戒めて塩の作り方を教えた。塩の泉は深さ五百四十尺、大きさ一丈、一日に採れる塩の量は四十箱余りにもなり、売ると大きな利益となった。張道陵は陽山の北西側を指し、「ここに城を築くと良い。」と言い、陽山の南を指し、「ここは川と山が向かい合っているから福庭を作るのに良い。」と言った。麓に川や井戸が無く、住民は水を得るのに苦労していたので、張道陵は神剣を地に刺して井戸を作り、神に守護させて水が枯れないようにした。また、趙昇と王長に、「この山は断崖絶壁が多く、崖崩れで民に災いが及びかねない!」と言って陽山の神を召喚して人を傷つけないよう盟誓を結ばせた。後の人は張道陵の行いに感銘を受けて祠を建て、今に至るまで祈祷が絶えることがない。

後日、張道陵は修練に励んでいたが、趙昇と王長に、「私が十二の神女らを井戸に封じ込めた時、彼女たちが脱いだ衣が今なお私の手元にある。もし、彼女たちが井戸から出て取り戻しに来られると、また人に害をなす恐れがある。」と言い、再び井戸に行って様子を見に行き、衣を山中の石室に隠して地の神に守護するよう命じた。この石室が今の焔陽洞である。こうして陽山の民は神女の害に悩まされることなく、塩の泉のお陰で豊かになった。

張道陵が弟子たちと宋江を渡っていた時、川の中の妖怪が人々に悪さをしていたので、石の箱を川の中に置いて妖怪の名を記し、法術で箱の中に封じ込め、さらに符を書いて箱の中から出られないよう鎮めた。以後、宋江の妖怪の害は無くなり、箱に書かれた符は後に擯鬼符と呼ばれるようになった。川の水位が低くなると度々目にするようになり、その都度供養して妖魔を防ぐよう願った。

真人となりて法と職を受く

張道陵は再び趙昇・王長と共に鶴鳴山に行った。ある日の正午、札を持った青い襟の着物に朱の衣を着けて靴を引きずる者と、玉の箱を捧げ持ち、絹の衣を着けて黒の頭巾をかぶって剣を帯びた者が突然現れ、朱の衣の者が進み出て、「上清の真符を奉じ、あなたを神仙界にお招きしたく思います。」と言った。しばらくすると、北東から旌節や幢を持ち、龍・虎・鳳凰・鶴・亀・鳥に乗った十四人の者が、前後に幾千万もの騎馬・獅子と辟邪・天の兵卒・数えきれないほどの従者を従えて張道陵を迎えに来た。次に黒い龍が紫の馬車を引いて来て、乗っていた二人の天女が張道陵を招き入れた。馬車が瞬く間に仙界の宮殿に着くと、門前の立て札に「(仮称)太玄都正一真人の宮殿」と書いてあるのが見えた。仙人たちは張道陵に拝謁し、しばらくすると、黒い衣を着けて天の符を持って剣を帯びた二人の官吏が仙籍に入った先祖の名簿を持って来た。張道陵はこれを見て、自身の先祖が皆、天に昇り仙人となったことが分かった。

張道陵は山に戻った後、弟子たちと共に渠亭山の石室の中で太真の気を練った。ある日、二人の童子が朱の衣を着けて旌節を垂れ、仙人たちを引き連れて先導しながら、「どうぞお越しください!」と言うので、張道陵は彼らと共に天に昇って行った。天上に着くと、金の階段と玉の石畳の先に巨大な宮殿が見えた。ある者が、「太上元始天尊に拝謁を。」と言うので衣を整えて進み出ると、殿上より円光が辺りを照らしているのが見え、眩しくて直視できないほどであった。またある者は、「左に無上大道君、右に太極真人、前に虚微元君、後ろに太上老君がおられます。」と言った。童子と天女は香を持ち、花を撒き、妙行真人は経典を持ち、俯いて前に立っていた。全員が集まり、仙人たちが、「そなたは遂に道を成就し、願いは通じ、万劫に渡る業縁も皆ここに滅した。」と言った。そして、殿上より青海小童を通じ、正一盟威の法を後世へ伝えていくよう命じられ、「三天扶教輔玄大法師」の尊称を授けられた。また、人間界に戻って法を広めるよう命じられ、天に昇る時期についてもお告げがあった。

張道陵は拝命して渠亭山の赤石崖舎に戻り、正一盟威の秘法を趙昇と王長に授けた。また、漓沅山で法を広めた。その後、平蓋山に居を移して九華大薬を調合した。

東の治に姚と俆という姓の二人の妖術師がおり、宮廟の神霊を召し使い、死者を操る術を使い、妖魔を多数引き連れて各地を巡り歩いていた。張道陵が蜀にいると聞くと赴いて面会を求め、「大道は一気に帰するのですから神霊の間に貴賤など無いはずです。我々は各地を治め、万億の神霊が従っております。あなたが有道の士であると言うのならば我々も同じでしょう。」と言い、手下らは家を取り囲んで面会を迫った。張道陵は面会を拒否して趙昇と王長に、「奴らは六天の邪神である。正気を穢す輩と会うつもりはない。」と言い、三昼夜に渡って彼らの動きを封じて道端に立たせ、一歩たりとも動くことを許さなかった。弟子たちが不思議に思って尋ねると、張道陵は、「悪霊と邪神らが群れになって私を試そうとしているから、術をかけて門の外に釘付けにしただけで、どうということも無かろう。」と言った。耐えかねた姚と俆は、「あなた様が有道の士であるとの評判を耳にしたので面会を求めたところ、断られた挙句に動きを封じられて長い間動けなくなっております。私たちに何の罪があってこのような仕打ちをなさるのですか?」と叫んだ。張道陵が弟子を通じ、「今、お前たちの行いを全て許し、為した無礼を不問に付す。」と言うと術が解けたので、姚と俆の一行は謝りながら去って行った。

老君より南北二斗の経を聴く

張道陵は弟子たちと共に鶴鳴山に帰った。漢の永壽元年(155)の一月七日の夜になった頃、趙昇と王長は天の御者が馬車に乗って山の南東上空を回っているのを見た。御者が大声で、「張道陵の功徳は既に成就した。これより秘籙を授ける。」と言うと、太上老君は龍の上の輿に乗り、張道陵は白い鶴に乗り、互いに成都の付近で出会った。太上老君が到着すると万の神が集まり出迎え、地中より高さ一丈余りの玉の椅子が現れた。太上老君は椅子に座ると、張道陵に道の要諦を授け、正一盟威の教旨を再び述べ、『北斗延生経』を説いた。十五日の上元の日に再び成都に集まり、『南斗経』などの諸経を説いた。拝聴し終わると太上老君は天に帰って行き、玉の椅子は地面に消えて穴となった。

張道陵は鹿堂治に行って天地山川の神々を召喚し、仙人たちとの集まりを持った。鹿堂山の前には高さ一丈余りの石筍があり、張道陵はそれを手に取って神々に、「太上老君の命により、私はここに正道を崇奉し、生命を重んじて争いを避け、国を助けて世を安らかにすることを誓う。もし、逆らう者がいれば、神々を遣わして天誅を加える。」と誓い、石筍を崖の下に投げると治の側に立った。こうして、三十六の修練の地、七十二の福地、三百六十の名山の位の高低を定め、各々に正神を置いて守護させて俗世の役人同様の統治を敷いた。

道の功徳円満し白日に天に昇る

張道陵は趙昇・王長と共に雲台治に行き、北西の端に祭壇を築いて炉を置き、大丹を煉った。丹ができて服用した後に沐浴すると、天に達するほどの神光を発した。

永壽二年(156)、張道陵は道を成就したことへの足跡を残しておきたいと思い、雲台治の北西にある崖に行き、身を躍らせて崖の中に入り、崖の上から出て来ると入った所と出た所に二つの洞窟が開いた。今では、入った所を峻仙洞、出た所を平仙洞と呼んでいる。

同年の一月十五日、太上老君は使者と五帝の侍従に任命書を持たせて渠亭山に派遣し、張道陵に「正一真人」の号を授け、太上老君より第六代の外孫とする勅命を出した。こうして、太上老君が引進師、東海小童君が保挙師、太上道君が度師となり、張道陵を天師とした。

張道陵は『盟威』『都功』などの秘籙、斬邪の二剣・任命書・玉の印を長男の張衡に授け、「私が太上老君より親しく道法を伝えられて授けられたこれらの書は、科儀法門を掌り正一道の要となる。代々子の一人が私の位を継げ。我が一族以外の者に継がせてはならぬ。」と戒めて飛仙・飛行の法を授けた。また、趙昇と王長に、「丹の残りが煉丹場の金の器に入っているから、お前たちが分け合って飲みなさい。今日一緒に昇天するのだ!」と言った。

正午になると、鶴鳴山の時と同様に、札を持った青い襟の着物に朱の衣を着けて靴を引きずる者と、玉の箱を捧げ持った絹の衣を着けて黒の頭巾をかぶって剣を帯びた者が張道陵を迎えに来た。各々が玉の箱を捧げ持ち、朱の衣を着けた使者を従え、前に進み出て礼拝し、「上清の真符を奉じ、あなたを神仙界にお迎えに参りました。」と言い、しばらくして、北東の方より旌節と青色の幢を持ち、龍・虎・鳳凰・鶴に乗った二十四人の者に、獅子と辟邪・先払いの天の騎士と兵卒が降りて来て「景陽吏」と名乗った。そして、黒い龍が紫色の輿を載せて降りて来て、中に乗っていた二人の天女が張道陵と夫人を招き入れ、迎えの者たちが先導して付き従い、白昼の雲台治で天の音楽と共に昇って行った。時に張道陵は百二十三歳であった。今の雲台山には祖天師の墓があり、彼の衣冠が収められている。