五十九代天師の諱は鈺、字は佩相、号は琢亭、張起隆の次男である。乾隆三十五年(1770)七月十一日に生まれた。美しい豊かな顎に端正な佇まいで、五十八代天師と非常によく似ていた。普段から決心すると直ちに実践し、素直で嘘をつかない人となりであった。師匠や儒者を重んじ、旧友との親交が深かった。人と接するときは謙虚に朗らかな姿勢で振る舞った。帝から道について問われると機敏に答え、社交辞令に長けていた。声は鐘のように響き、周囲から尊敬されていた。日照りや洪水の時、民のために道壇を設けて祈祷すると神々が必ず応じた。国中から厄払いを願う人々が訪れ、祈祷すると瞬く間に効験を示した。
嘉慶五年(1800)に天師の位を継いだ。宮廷に詣でて嘉慶帝にこれまでの厚意に感謝し、乾隆帝の陵墓へ詣でたいとお願いした。帝は懇ろに天師を温かく迎え、陵墓に詣でることを認めた。帝は前後数回、天師を養心殿に召し、しばしば消化の良い食べ物・絹織物、チベットの香を賜った。
嘉慶六年(1801)、帝は天師に封号を加えて「通議大夫」とし、父母と妻にも封号を授けた。
嘉慶十年(1805)、帝は天師を宮廷に召し、玉の如意・荷袋・金銭四円を賜い、三品の爵印を与えた。五十六代天師の時に五品に降格され、五十七代天師の時に三品に昇格されたものの爵印は未だ与えられていなかったのだ。
嘉慶十三年(1808)、天師は帝に大上清宮の修繕を求め、帝はこれを認めた。
嘉慶十四年(1809)、天師は帝に福寿の言葉を贈り、帝は宴席と絹織物・錦などを賜った。五月に帝の命を受け浙江に赴き、仁和県鹽橋の広福廟の土地神である蒋氏三兄弟に「漕務を総領し、水利を兼轄す」の称号と、王の位を加えて「広濟孚順王」「利濟孚恵王」「霊応孚佑王」とした。
嘉慶十八年(1813)に白蓮教の分派が癸酉の変を起こして清朝の転覆を狙い、一時は紫禁城を攻撃したものの鎮圧された。
嘉慶十九年(1814)、龍虎山の廟宇の老朽化が著しく、領田の多くが質に入れられていたので、帝は天師に銀二万両を貸与し、正一観などの廟宇を修繕して領田を買い戻すことを認め、毎年千両を二十年分割で返すよう求めた。
嘉慶二十三年(1818)十二月、帝は天師を宮廷に召して親筆の「福」の字を賜い、手厚く恩賜を贈った。
嘉慶二十四年(1819)正月、天師は帝から借り受けた銀二万両のうち三千両を返し、全額返済の能力が無いことを理由として残債の免除を求めたが、帝は認めず、教団資産を徹底して調査するよう命じた。五月、帝は乾隆帝時代になされた梅瑴成の奏上に倣い、天師を宮廷に召して宴席を賜うことを中止した。
嘉慶二十五年(1820)八月に道光帝が即位した。道光元年(1821)に天師は江西の長官を通じて帝への謁見を求めたが認められず、帝からも謁見の中止が通告され、宮廷に召されることが無くなった。七月下旬に羽化した。五十二歳の時であり、二十二年に渡る在位であった。南極観の鉄欄に葬られた。