三十五代天師の諱は可大、字は子賢、三十二代天師の曾孫であり、張伯瑀を祖父とし、張天麟を父とした。寧宗皇帝の嘉定十年(1217)に生まれた。三十三代天師が羽化した時、張伯瑀が仮の形で教団を掌った。三十四代天師が羽化した時、子の張成大はまだ幼かったので張天麟が仮の形で教団を掌り、嘉定年間(1208-1224)の初め、寧宗が宮廷に召して号を賜い「仁静先生」とした。それから間も無く、張成大が亡くなったので、次男の張可大が三十四代天師の跡継ぎとなった。
理宗皇帝の紹定三年(1230)、張天麟が亡くなったので、十四歳の張可大が正式に天師の位を継いだ。四方から法籙を受けに訪れる者が数万を数え、道の教えが盛んになった。
時に鄱陽に洪水が起きて人々の家が流されたので、袁甫が洪水を鎮めるよう求めてきた。天師が符を川に投げ入れると、雷が白い大蛇を撃ち殺して洪水が収まったので、袁甫は詩を贈った。
理宗皇帝は端平年間(1234-1236)に天師を度々宮廷へ召した。端平三年(1236)、帝は三十二代天師の時に出版された上清三洞諸品の宝籙の重版を金銭面で支援した。
理宗皇帝の嘉熙三年(1239)の四月、銭搪潮が決壊し、洪水が山に及んで民の家が流されたので、帝は天師に鎮めるよう命じた。天師が銭符を水に投じると洪水は収まった。また、日照りとイナゴの害が起きたので、帝が天師に命じて斎醮を太乙宮で営ませると雨が降り、イナゴは全滅した。天師は洪水を鎮め、雨を降らせ、イナゴを駆除するなど、国家守護に関わるあらゆる物事に霊威を発揮した。七月に帝は天師を召し、座を賜い、お斎の食事を賜い、号を賜い「観妙先生」とし、三山の符籙と皇室の道教儀礼を掌り、杭州の龍翔宮の首領となるよう命じた。帝は大層な褒美を賜い、頻繁に賞賜を送り、先帝が賜った真懿観の修繕を金銭面で支援し、天師の親族が同居できるようにし、田地を賜い、日照りの時には租税を免除した。また、親筆の「真風殿」「紫微閣」「真懿観」の額と親筆の詩が書かれた扇を賜った。また、祖天師に「三天扶教輔元大法師正一静応顕祐真君」の封号を加え、龍虎山地方の神や聖井山の龍神などの神々全てに封号を加えた。以後、帝の寵愛はますます深まり、事ある毎に賜り物が下され、毎年のように香が下賜されて斎醮が営まれ、その度に神々が応じた。
理宗皇帝は宝裕二年(1254)に再び天師を行宮へ召して龍翔宮を掌るよう求めたが、天師は老いた親の面倒を見る必要があるとして辞退した。以後、召されることがあっても上の空で応じるようになった。
宋朝の滅亡直前、元朝の世祖フビライが天師の評判を聞き、己未の年(1259)に王一清を密使として派遣して神託を求めた。天師は王一清に、「善き事かな。あと二十年もすれば天下は治まりますぞ。」と告げた。果たしてその神託通り、至元十三年(1276)にフビライは中国を統一した。
理宗皇帝の景定三年(1262)の四月七日、天師は教法と印・剣を次男の張宗演に授け、その旨を朝廷に報告した。四月十日に羽化した。四十六歳の時であり、三十三年に渡る在位であった。帝と東宮の各々が弔いの品を賜い、剣は瑞慶観に埋葬され、宰相の江万里が墓碑の銘を撰んだ。