五十四代天師の諱は継宗、字は善述、号は碧城、康熙帝が親筆の「碧城」額を賜ったことに由来する。張洪任の長男である。康熙五年(1666)四月二十四日に生まれ、その八か月後に張洪任が羽化した。康熙六年(1667)に帝は張継宗を継承者と認めたが、幼かったため、同父異母の弟である張洪偕が仮の形で教団を継いで天師としての職務を代行し、張継宗に教団を継がせるべく成長するのを待つことにした。
張継宗と母の楊氏は孤立無援で、幾度も飢え死にの危機に晒された。康熙十二年(1673)に三藩の乱が起きた。これまで清の建国に功績があった武将には藩の領有が認められていたが、帝は中央集権体制を確立するために藩の廃止を望んでいた。武将の一人である尚可喜が老齢のため、引退して遼東へ帰り、息子への藩の相続を認めるよう願い出たが、帝は認めなかったので、呉三桂と耿精忠は帝の心中を探るべく、試しに藩の廃止を具申すると、ついに帝はこれを機に廃止を決定する詔を出した。怒った呉三桂は「反清復明」を旗印に「天下都招討兵馬大元帥」と称して清に対する反乱を起こし、耿精忠に決起を呼び掛けた。耿精忠は「総統兵馬大将軍」と称し、辮髪を止めて衣冠を改め、福州で総督や幕僚五十余名を捕らえて殺し、呉三桂と合流して江西に入った。台湾の鄭氏政権も呼応し、海軍によって沿岸の郡県を制圧して彼らを支援したため、一時は長江以南が全て呉三桂らの手に落ちて清は危機的状況となった。このような騒乱の中で無頼の輩が増長し、張継宗と母親は流浪の身となり幾度も死に瀕したが、道士の何其愚の助けを得て何とか生き長らえてきた。張継宗が成長して教団を継ぐべき時が来たにも関わらず、地方の長官が耳を貸そうとしなかったので、何其愚と共に都に赴き、礼部に上訴してようやく天師の位を継ぐことができた。
康熙十八年(1679)、十四歳の時に天師の位を継いだが、宮観は焼け落ちて田畑は荒れ果てていた。天師はこのような苦難の中で質素に暮らした。倹約家の母のお陰で数年して藁葺き屋根の家に住めるようになった。
康熙十九年(1680)に帝は天師を宮廷に召した。そこに天師を騙り、大真人印は自分の物であると主張する者が現れたので、帝はそれぞれに道壇を設けて雨乞いの儀式を執り行わせた。天師が某日に雨が降るよう祈祷すると、その通りに雨が降った。天師を騙る者が祈祷しても何の効験も無かった。帝は喜び感嘆して張継宗が正統な天師であると認めた。帝は宮廷官吏の呉士行ら三名を世話係に任命し、三年毎に交代させることとした。都では毎日の扶持が与えられ、外出時は馬が支給された。後に世話係が二名増やされて五名と定められた。天師が龍虎山に帰る時、帝は親筆の「大上清宮」の額を賜った。
康熙二十年(1681)、帝は天師に封号を加えて「正一嗣教大真人」とした。
康熙二十二年(1683)、天師は真人の封号を父母にも加えるよう求めたが、先例のないこととして認めなかった。帝は、「天師を真人に封じたのは、先代の天師を封じた先例に基づいて行ったに過ぎない。朝廷は道教も仏教も特別扱いはしない。もし、一方を特別扱いすれば、次第に増長して道理から外れることを心せよ。」と諭した。
康熙二十六年(1687)に帝は天師を宮廷に召し、親筆の「碧城」の号に、真人府と大上清宮の扁額を賜い、また金を賜い大上清宮を修復させた。
康熙二十九年(1690)に天師は「上海県城隍廟顕佑伯印」を上海県の城隍神に与えた。
康熙三十三年(1694)に帝は五岳に香を捧げるよう命じた。開封に至ると、長官が干ばつと疫病を鎮める祈祷を求めた。天師が祈祷をすると十日もせずに雨が降り疫病は収まった。また川が決壊し、岸壁が日に数十丈も浸食されていったので、恐れをなした役人や民が天師に助けを求めた。天師が鉄の符を川に投げると岸壁は元通りになった。龍陽を過ぎた時、「五羊」と名乗る祟り神が天師の邪魔をしたので、その祠を焼き払うと白い足のスッポンが大量に川の中で死んでおり、それ以後、怪異は収まった。姑蘇を過ぎた時に赤猴と鉄鎖の物の怪を退治した。康熙三十五年(1696)に帰り、帝は乾坤の玉剣を賜った。
康熙三十九年(1700)の冬に帝は天師を宮廷に召した。節蘇郡に滞在した時、明代の徐道と程毓奇の撰による『神仙通鑑』初版の序を書いた。
康熙四十二年(1703)に帝は天師に封号を加えて「光禄大夫」とし、妻の牟氏を「一品太夫人」、継母の翟氏・母の殷氏を「一品夫人」とした。
康熙四十六年(1707)に帝は天師に霊裕宮察院を賜った。
康熙五十二年(1713)春に天師は帝に許しを請い、再び香を五岳と武当山に捧げた。三月に帝が六十歳の誕生日を迎えるため、天師は金籙醮壇を北京海淀の永寧観で三昼夜営んだ。同年、帝は天師に銀を賜い、龍虎山の殿宇を修復させた。
康熙五十四年(1715)冬に帝に召されて都に赴く道中、揚州の瓊花観に赴き、驚いた様子で、「ここは五十二代天師の羽化の地である。私もここで羽化するのだ!」と言った。十二月(西暦1716年1月)に軽い病により瓊花観で羽化した。五十歳の時であり、三十七年に渡る在位であった。篠嶺背の南の山に葬った。著書に『崆峒問答』一巻と『中岳進香建醮記』一文が今に残る。