正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

56.張遇隆

五十六代天師の諱は遇隆、字は輔天、号は霊谷、張錫麟の長男である。雍正五年(1727)に生まれた。生まれつきの聡明さと才知は並々ならぬものであったので、人々から神童と呼ばれた。家にいる時は常に弟子たちと経典を学び、道法と儒学を極め、修練を怠ることが無かった。

乾隆七年(1742)、天師が十六歳の時、叔父の張昭麟と共に都へ赴き、帝に教団の継承を報告して天師の位を継いだ。帝は天師を円明園に召して宴席を賜い、消化の良い食べ物・親筆の「教演宗伝」の額・朝服・袍套・筆・墨などを賜い、以前と同様の待遇でもてなされ、各親王からの賜り物も贈られた。九月、天師が帝の生誕祝賀儀礼に参列した時、鴻臚寺卿の梅瑴成が、道家の張天師が七卿と共に参列するのは分不相応であるとし、朝廷儀礼に天師を参加させないよう帝に奏上した。帝はこの訴えを認め、以後、帝が天師を宮廷に召す際は慣例として宴席を賜り、宴が終わり次第帰らせることとし、朝廷儀礼の時期であっても参列は認めないこととされた。

乾隆十年(1745)に帝は天師を宮廷に召し、『山荘避暑詩集』と刺繡された絹織物二端などを賜った。

乾隆十二年(1747)に梅瑴成が、道教はチベット仏教を崇敬する朝廷にとって異端の教えである上に、天師に官位を与え、封号を賜い、恩賜を厚く贈るなどの習わしは明朝の悪弊であり清朝が踏襲する必要は無いと主張し、宮廷内での道教儀式や官位のあり方を見直すと共に、以後、天師を宮廷に召して宴席を設けないよう帝に再び上奏した。十二月にこれを受けて大学士と礼部が審議し、帝に対し、康熙帝や雍正帝が天師に褒美を与えて官位や封号を賜い、雨乞いの儀式を行わせていたのは、明代からの習わしを踏襲していたに過ぎず、今の帝が続ける理由は無いことを指摘した。その上で、道録司が正六品であるため、天師には一つ上の正五品を授けるのが、教団を統率する職責を考慮した上で適当であると助言し、天師を宮廷に召して宴席を設けるのは止めにすべきであると奏上した。帝はこの訴えを認め、天師は正五品へ降格され、位は世襲とし、宮廷に召して宴席や封号を賜うことは中止とされた。

乾隆十三年(1748)、帝は康熙帝の代に五十四代天師へ賜った霊裕宮察院を接収して朝貢使節の宿舎に充てた。

乾隆十五年(1750)に天師の系譜の修訂がなされた。

乾隆十六年(1751)に帝が第一次の南巡を行い、天師を行在宮に召し、絹織物を二端と荷袋などを賜った。その後、天師は山中に遊び、心を全て道に任せて満足げな様子であった。乾隆三十一年(1766)に羽化した。四十歳の時であり、二十五年に渡る在位であった。篠嶺背の南の山に葬られた。