四十七代天師の諱は玄慶、字は天錫、号は貞一、又の号は七一丈人、天順七年(1463)四月に生まれた。生まれたときに瑞兆が現れたという。幅広い学識を持ち、文章に秀で、詩や書画に長け、特に蘭花や竹・石を巧みに描いた。
成化五年(1469)四月、張玄慶が七歳の時、父の四十六代天師が帝の怒りを招き、天師の位を剥奪される事件が起きた。逆境の最中、寧府盧陵郡主の子である田景隆の助けによって母子共に南昌に移り、手厚い庇護のもとで平穏に暮らすことができた。刑部尚書の陸瑜らは帝に、天師の世継ぎの承認や封号の授与を止めにするよう奏上したが、帝はこれを認めず、天師の世襲や封号の授与は旧来の習わしであるから、四十六代天師に代わる者を張一族の中から選び出し、新たな天師として承認して封号を授けることとし、今後、天師を騙って符籙を発行した者は重罪に処すと定めた。それから二年間、張一族の中で後継者争いが絶えず起こり、張懋嘉の孫の張光範と張玄慶の二人が争うようになったので、帝が臣下に命じて議論させた結果、礼法に基づいて張玄慶を上位の序列とし、天師の位を継ぐことを認めた。
成化八年(1472)に張玄慶が教団を継いだ。成化九年(1473)、天師は四十六代天師を釈放するよう帝に奏上した。帝はそれを受け入れ、四十六代天師を釈放して龍虎山へ帰らせた。成化十一年(1475)、祖母の高氏が天師と共に宮廷に赴き、帝の恩に感謝した。
成化十三年(1477)、帝は天師を宮廷に召して庭園で宴席を賜い、封号を加えて「正一嗣教保和養素継祖守道真人」とし、道教を掌るよう命じ、天師の母の呉氏に「志順淑静玄君」の封号を授けた。また、宮廷の役人を派遣し、成国公の朱儀の娘を召して天師の妻とし、翌年(1478)に南幾で結婚式を挙げるよう命じた。その後、帝は天師に蟒衣・玉帯を賜い、馬と船を支給して龍虎山へ帰らせた。
成化二十年(1484)、帝は符籙の偽造・私製と放生の儀式に使う魚の盗みを禁じる勅令を出した。成化二十一年(1485)春、江西の長官に特別な勅令を出し、大真人府を再建させ、大華蓋山と鉄柱宮に香を捧げるよう命じた。成化二十二年(1486)、帝は天師を宮廷に召し、欽安殿で斎醮を営むよう命じ、玉帯と金を賜い、道士三百人に度牒を与えた。
弘治帝が即位し、弘治元年(1488)、天師は帝の即位を祝うために宮廷へ赴き、帝は手厚い待遇でもてなした。
弘治三年(1490)夏、雷が謹身殿の柱に当たったので、帝は天師に祈謝斎醮を営むよう命じると、儀式の最中に美しい靄の瑞兆が現れた。帝は喜んで天師に褒美を与え、さらに宮廷の庭園で斎醮を営み、帝の世継ぎの安産を祈願するよう命じた。同年、天師の長男である張諺頨が生まれた。翌年(1491)に張皇后が皇太子を出産したので、帝は天師に花の彫刻・酒・壽の文字が刻まれた玉帯・金冠・蟒衣・銀を賜った。弘治六年(1493)、天師は張皇后に籙を授けた。後に籙の巻物は海外へ流出し、現在、アメリカのサンディエゴ美術館に保管されている。
弘治八年(1495)、上清宮が大火に遭った。朝廷の家臣たちは、四十六代天師の悪行に対する天罰であるとして、天師の来訪を阻止しようと企み、さらに帝に斎醮の回数を減らすよう諫めたが、帝は聞き入れなかった。
弘治九年(1496)、帝は太監の李瑾と李珍を派遣し、天師に保民大醮を営むよう命じ、江西の長官と礼部の両司に大醮に関わる官吏の監督をさせた。儀式の最中に鶴が空を舞い、瑞雲が覆いかぶさるように広がった。弘治十一年(1498)冬、帝が天師に朝天宮で雪を乞う祈祷をするよう命じると、翌日に大雪が降った。
弘治十二年(1499)、天師が病気になり、張諺頨を跡継ぎとして予め決めておく旨を帝に報告した。帝はこれを認め、太上延禧秘籙の伝授を命じ、象牙の印章二つと金を賜った。天師は暇乞いをして龍虎山に帰った。五月に沽頭閘の水位が低くなり、船が進めなくなったので、分司主事の蒙某が天師に祈祷を求めた。天師が鉄の符を白象潭に投げ込むと、夕方に雲が沸いて雨が降り注ぎ、船が進めるようになった。
弘治十四年(1501)冬、天師は張諺頨と共に宮廷へ赴いた。帝は欽安殿に召して張諺頨に衣帯と座を賜い、さらに宮中で宴席を賜った。天師は帝に、今後の事は張諺頨に引き継いで自身は退職する旨を帝に伝え、帝はこれを認めた。翌年(1502)の春、帝は天師と張諺頨に長陵の祭祀へ同行するよう命じ、祭祀の後、便殿で宴席を賜い、勅書を授けて天師の功績を称えた。
四月、帝は天師に天目・葛仙・華蓋・武当・鶴鳴の五山へ香を捧げるよう命じた。天師が帰って来ると、帝は労をねぎらい、これまで以上の宴席と褒美を賜った後、官吏と兵士に護送させて龍虎山へ帰らせた。
弘治十七年(1504)、帝は張諺頨を宮廷に召した。張諺頨は、天師が親しく描いた祖天師の聖像と帝が欲しがっていた古剣などを献上し、帝は祖天師の絵と金を天師に賜った。
弘治十八年(1505)二月の春、帝は心を込めて天師を褒め称える特別な書簡を送り、武当・鶴鳴・葛仙の三山へ香を捧げ、帝の畏敬の念を神々に伝えるよう命じた。天師はこれらの険しい山々を登り、霊窟を探索した。鶴鳴山でボロボロの衣を着けて痩せた老翁と出会い、天師がお辞儀をして迎えると老翁は笑い、龍(辰)か蛇(巳)の年に羽化すると告げ、袖を払って崖の上で姿を消した。天師はしばらくじっと見つめていたが、悲しみ嘆いて帰って行った。五月に帝が崩御して正徳帝が即位した。
正徳四年(1509)九月二十日に、天師は宴会に友人を招いて大いに楽しみ、盃を挙げ、林方伯・王憲副に、「私には老翁との約束があるので逆らうことはできない。再び会うことは無いだろう。あなた方は天下の太平を担う者として勤め励みなさい。」と言ったが、酔っていたので理解する者はいなかった。宴会が終わった後、天師は弟子たちに命じて布団を玄壇の西に置かせ、ゆったりと衣を整えて北向きに座り、老翁が告げた言葉を唱えて羽化した。亡骸は金谿の長生観に埋葬された。四十七歳の時であり、三十年に渡る在位であった。