六十二代天師の諱は元旭、字は松森、号は暁初、又の号は小岩、張仁晸の長男である。道治元年(1862)八月七日に生まれた。光緒年間に秀才となった。威厳のある風貌と荘厳な気風の持ち主で、道法に精通し、文章に長けていた。
光緒三十年(1904)に天師の位を継いだ。帝は天師に封号を加えて「光禄大夫」とし、さらに五十九代から六十一代までの天師にも「光禄大夫」の封号を授けた。天師は道の教えを慎み深く修め、伝統を受け継ぎながら教団を発展に導いた功績は偉大なものであった。上海に遊んだ時、符籙を信徒に与えて多くの効験をもたらした。道士として籙を授かる者は多かった。
光緒三十三年(1907)、台湾の宜蘭碧霞宮で作られた『正一妙法敦倫経』の原稿が龍虎山に送られ、天師が鑑定して版木を制作した。
光緒三十四年(1908)冬、帝と皇太后が逝去したので宣統帝が三歳で即位し、元号を宣統とし、父の醇親王が監国摂政王として摂政を行った。
宣統二年(1910)元旦、中国内地会(China Inland Mission, CIM)の宣教師Carl Frederick Kupfer(1852−1925)が龍虎山を訪問し、天師との会談の内容と写真がSacred Places in Chinaに収録されている。
宣統三年(1911)三月の黄花崗起義、八月の武昌起義により、辛亥革命が成功した。西暦1912年1月1日、孫文は南京で中華民国の成立を宣言し、初代臨時大総統就任のための宣誓を行った。1月2日、孫文は各省に陰暦の廃止と太陽暦の採用及び中華民国暦の採用を通達し、1912年を中華民国元年とした。1912年2月12日、帝が退位して清朝は滅亡し、帝政が廃止された。3月10日、袁世凱は北京で中華民国第二代臨時大総統に就任し、これより1928年までの中華民国政府は「北洋政府」と称された。
中華民国が成立して間もなく、江西の長官の李烈鈞が、清朝から与えられていた天師の封号を取り消し、真人印と教団の領地を没収した。上海の紳士らと各宗教界は時勢に対応するため「世界宗教会」を結成し、天師を招いて城隍廟で歓迎会を行い、後に「上海正一道教公会」が火神廟に設けられ、全国規模の「中華民国道教総会」へと繋がった。天師は北米長老教会の宣教師Gilbert Reidの求めに応じて尚賢堂に加わり、各宗教界の親善を目的とした「中外教務連合会」と共に道教の源流について講演した。両会の関係は密接であったため実現できた。
民国二年(1913)、国民党主導の国会は袁世凱を大統領として選出した。天師は上海大堺の関帝廟で「中華民国道教総会発起人会議」を挙行し、「道教を昌んに明らめ、以て世道を維ぎ、道を以て体と為し、法を以て明と為す」との発起書により組織の宗旨を示し、医院・学校・事業の運営を計画した。しかし諸般の事情により民国政府の許可が得られず、道教界も道教総会の設立に否定的であった。
民国三年(1914)、長江巡閲使の張勲は袁世凱に請願を行い、道教は我が国最古の宗教であること、真人の称号は宗教上用いることを指摘し、爵位ではないため国が俸給を与える必要はなく、使用を認めても国に支障は及ばないと述べ、天師の真人の称号を回復させるよう求めた。内政部は請願を受け、宗教信仰の自由と人民の財産保護の観点から、清朝の皇帝が天師に与えた真人印と爵位に限り無効とし、教団が独自に真人の称号や真人印を用いることを禁止するものでは無いとした。また、張家の財産は法律に基づいて保護されるべきとした。袁世凱は内政部の勧告を受け入れた。
民国四年(1915)、袁世凱が皇帝を名乗り、十二月、翌年より帝政を復活し、年号を洪憲と定め、国号を「中華帝国」に改めるとした。翌年(1916)、袁世凱は天師を都に召した。天師が都の郊外に着くと、万を超える人々が出迎えた。袁世凱は天師に封号を加えて「洪天応道真君」とし、「正一嗣教大真人」の封号を回復させ、没収した真人印と領地を返還し、三等の嘉禾章と「道契崆峒」の扁額を賜い、道教と国家との関係回復を示し、斎醮を営むよう求めた。天師は都に半月留まり、新華宮で斎醮を営んだ。帝政の復活は民衆や軍閥の反感を買い、三月に袁世凱は帝政を廃止し、六月に病死し、各地方は軍閥割拠の時代に突入した。呉佩孚は洛陽で、孫伝芳は江寧で天師と会見しており、教勢は一時期回復を見せ、天師の足跡は北京・天津・上海・漢中各地に及んだ。
天師は世界大戦の危機を察知し、Gilbert Reidと内外の知識人らと共に北京の尚賢堂で祈祷会を開催し、天帝の慈悲によって戦争勃発の阻止と兵の撤退を願った。民国六年(1917)、中国が第一次世界大戦に加わり、天師は『息戦論』『大千図説』の序を書いた。八月、北洋政府が世界大戦に加わった。民国七年(1918)、陳独秀が『偶像破壊論』を発表し、全国に偶像の打破を呼び掛けたため、各地の廟宇が興学の名目で破壊された。
天師は歴代天師の系譜を探求し、墓碑銘を調査し、現存する文献と六十一代天師から見聞きした話に基づき、天師伝に五十代〜六十一代天師を増補して『補天師世家』とし、民国七年(1918)に出版した。
民国八年(1919)に「万国道徳会」が設立され、天師が名誉会長に推薦された。民国九年(1920)に「五教会道教会」の会長に推薦された。しかし、中華民国道教総会設立の構想は様々な障害から、天師の生涯を通じて実現には至らなかった。
民国十四年(1925)二月十六日、天師は病により上海で羽化した。四月二十九日の出棺当日には道士三千名が参列し、葬列の長さは一キロにも及んだ。棺は龍虎山に送られ、天師府から北方二キロにある洋塘観に埋葬された。六十四歳の時であり、二十四年に渡る在職であった。