正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

55.張錫麟

五十五代天師の諱は錫麟、字は仁趾、号は龍虎主人、張継宗の長男である。康熙三十八年(1699)閏七月二十六日に生まれた。いつも四人の幼い弟たちと一緒に道法を毎日学び、祖天師の法を尊び、苦楽を共にし、家では雑談に耽らなかった。

康熙五十五年(1716)に天師の位を継いだ。帝は天師を宮廷に召して暢春園で会い、庭内で宴席と香・扇・絹織物を賜い、以前と変わらない厚遇であった。その後も帝は天師を召す度に恩賜を賜った。

雍正元年(1723)に雍正帝が即位した。帝は先例に沿い天師に封号を加えて「光禄大夫」としたが、即位直後のこともあり宮廷に召さなかった。

雍正五年(1727)九月に帝は天師を宮廷へ召したので、法官の婁近垣と共に都へ向かったが、浙江の杭州で重い病に罹り、婁近垣に、「私は国の恩に報いることができなかった。お前は私の志を継ぎ、帝に忠誠を尽くして仕えなさい。」と命じた。その翌日に天師は羽化した。二十九歳の時であり、十二年に渡る在位であった。長男の張遇隆は五月に生まれたばかりで教団を継がせるには早過ぎた。弟の張慶麟は相応の年齢であったため、仮の形で教団を継がせるのに問題ないとして帝に認可を求め、帝はこれを認めた。

雍正八年(1730)に帝の体に異変が起きたため、婁近垣に命じ、道壇を設けて祈祷させたところ確かな効験があり、符水で厄払いをするとすっかり治った。帝は婁近垣に四品の位を賜い龍虎山の副司とし、欽安殿を掌るよう命じた。また、国庫の銀を上清宮の修復に充て、龍虎山の領田を増やすよう大臣に命じた。

雍正九年(1731)、帝は張慶麟の次の弟である張昭麟の品行方正と聡明さを理由とし、仮の形で教団を継ぎ、龍虎山の廟宇の修復作業の指揮を執るよう命じ、銀の絹織物を賜い、龍虎山に帰らせた。雍正十年(1732)に帝は龍虎山に使者を派遣して同様の命令を伝えた。その後、数回宮廷に召して恩賜を賜った。

雍正十三年(1735)九月に乾隆帝が即位し、張昭麟に封号を加えて「光禄大夫」とし、妻の塞氏を「一品夫人」とし、八月に亡くなった雍正帝の棺に詣でることを認めた。

満州族は主にチベット仏教黄帽派を信仰しており、乾隆帝は頻繁に詔や文集で黄帽派の宗教観を説き、保護政策を集中して打ち出した。仏教他派や道教が禁じられはしなかったものの、寺廟の修繕が規制されるなど発展に大きな制限が加えられた。

乾隆四年(1739)、張昭麟が龍虎山の道士たちを貴州に派遣して伝度授籙を執り行った時、貴州総督巡撫の張広泗が、少数民族や無頼の輩を扇動するものとして禁止するよう帝に奏上した。帝はこの訴えを認め、以後、道士を龍虎山以外の地に派遣して伝度授籙を執り行うことが一切禁じられ、破った道士は処罰の対象となり、天師の責任も問われることとなった。

乾隆七年(1742)、張昭麟は成長した張遇隆と共に都に赴き、帝に五十六代天師の就任を報告して教団が引き継がれた。