正一嗣漢張天師府正一嗣漢張天師府

経符一体

道教の経典『老子道徳経』は聖経と称えられ、キリスト教の『聖書』に次いで世界各国で翻訳・紹介されている。哲学者は老子を哲学者とする観点から『老子』とのみ称するが、道教では宗教・神の道とする観点から『道徳経』の尊称を用いる。「道」を主体とし、「徳」の実践を教えとし、両者一体として自身を含む全てに通じる原理、「経」は不変の象徴、歩くべき道である。修練によって自己を正しく導くための行動の規範として、経典が修行のために通る一筋の道路となる。「経を離れ道に叛く」という言葉がある。経を離れることと道に叛くことは同じ意味である。経典から離れれば道を修める方向性と拠り所が失われ、道からだんだん遠ざかってしまう。そのため、正一道は『老子道徳経』を自己修練の重要経典の一つとして位置付けている。

教えの実践としての「経」以外にも「符」「籙」「剣」「印」などは全て太上老君が祖天師に授けており、正一道はこれらを千百年余り絶やすことなく受け継ぎ、道教教団における貴重な遺産となっている。一般に道教の科儀で印と剣はよく見かけるため知られているが、経・符・籙について知見のある人は少ない。籙は2015年から漸次復元が進められており、内容を理解して有効に用いるには、籙を受けた道士各々自らが味わい、証を得る必要がある。正一道には経を修練の根本とし、符を日常生活の具体的実践として用いる「経符一体」の修練精神が存在する。この場を借りて有縁の方々に少しでもその素晴らしさを知っていただこうと思う。

天師府が伝承している老子道徳経は一般的に流伝しているものと比べて、内容に大きな違いがある。敦煌の残本『老子想爾注』を見ると分かるように、正一道教団は創設初期から老子道徳経に修練の観点に基づく解釈を加えており、一般的な哲学的解釈とは異なっている。これから老子道徳経の第一章を例として、一般書籍と天師府との間で解釈が異なるだけでなく、本文にも大きな違いがあることを示す。老子道徳経は道士が一生涯かけて繰り返し読む経典であり、人生における時々で味わいも異なる。ここでは的を絞った分かり易い解釈を提示するにとどめる。

一般書籍の『老子道徳経』

道可道、非常道。
道の道とすべきは、常の道に非ず。

名可名、非常名。
名の名とすべきは、常の名に非ず。

無名天地之始、有名万物之母。
名無きは天地の始めにして、名有るは万物の母なり。

故常無欲以観其妙、常有欲以観其徼。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る。

此両者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
此の両者は同じきに出でて名を異にす。同じく之を玄と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり。

天師府内伝『老子道徳経』

道・可道・非常道、
道・道とすべきこと・常の道に非ざることあり、

旡・可炁・非常炁。
旡・炁とすべきこと・常の炁に非ざることあり。

無旡天地之始、有旡万物之母。
旡無きは天地の始めにして、旡有るは万物の母なり。

常無以観其妙、常有以観其徼。
常に無にして以て其の妙を観、常に有にして以て其の徼を観る。

両者同出異名。同玄玄之又玄。道旡衆妙之門。
両者は同じきに出でて名を異にす。同じく玄にして玄の又玄。道旡衆妙の門なり。

解説

第一句「道・可道・非常道」は、道(タオ)に三種あることを示す。「道」とは、「先天の道」とも言い、宇宙が形成される以前の道である。「可道」とは、人が認識・理解可能な「後天の道」「自然の道」であり、自然環境の中で形成された道である。「非常道」とは、個人が考えている道であり、各々の環境や思考は異なるため、道に対する考えも各々異なり、自然の道に沿わないどころか、甚だしくは偏った見地に陥る場合がある。

例えば、二酸化炭素の排出が地球温暖化を起こしていると主張する人々がいる。しかし、道教は地球温暖化を自然現象、すなわち自然の道であるとし、二酸化炭素が地球温暖化の元凶であるという説は常の道・真の原因を示していないと考えている。日本でユーラシア大陸由来のナウマンゾウやマンモスの化石が発見されるのは、旧石器時代の日本は氷期・間氷期の最中であり、海面は現在より100mも低く、ユーラシア大陸と地続きとなっていたからだ。縄文時代に温暖化で海面が上昇し、日本列島と大陸は海で隔てられ、さらなる温暖化で「縄文海進」という海面上昇が起きた。このため、日本の内陸部で貝の化石が発掘される。現在の地球もまた自然に温暖となり、極地の氷が解け、海面が段々上昇しているだけだ。道教は360年を天運の1サイクルとしており、地球の寒冷・温暖化は、自然のサイクル・自然の道であると考えている。エコロジーや環境保護は良いことで、生命の永続を重んじる道教の価値観に合うものの、二酸化炭素の排出が温暖化を引き起こす真の原因ではない。

第二句から、一般書籍と天師府内伝との間で大きな違いが生じている。一般書籍は「名可名非常名」、天師府内伝は「旡可炁非常炁」となっている。老子は過度な人為を不要とし、「無為」「自然無為」を提唱し、人為を排して自然に沿う生き方を説いた。一貫して無為の哲学を説く彼が、一般書籍のように人為の「名」と自然の道とを等しく重要なテーマとして取り扱うはずが無い。一方で、天師府内伝が「炁」をテーマとするのは合理的で、修練の上でも納得のいくものである。「道炁常に存り」は、道教で重んじられ、よく耳にする言葉であり、道と炁は常に両者一体の概念として扱われる。

「旡・可炁・非常炁」と第一句とは対句であり、炁に三種類あることを示す。炁は非常に複雑であり非常に多くの種類と階層を持つが、ここでは当面、修練において知るべき最も基本的な三種類の炁を示す。「旡」とは「先天の炁」とも言い、一般に理解が容易でないため具体的な解説は割愛させていだたく。「可炁」とは、人が感受・観察・理解できる「後天の道」「自然の道」である。自然の道の代表とされる太陽が生命を育むことから、「旡」の字に灬(れっか)の部首を加えて「炁」の字が作られた。生命の炁であることから「祖炁」とも呼ばれる。「非常炁」とは、人体内部の炁であり、日本語でいう「元気」がこれにあたる。祖炁に由来し、祖炁に帰るものなので、修練により体得することができる。

道教では以上の三種類の炁を「旡」「炁」「気」三種類の同音字に分けて表記するが、ここでは原意を損なわない限り、原文で「旡」の字が使用されている箇所を便宜上「炁」の字に代えて解説する。

第三・四句「無炁天地之始、有炁万物之母」は、宇宙と生命の生成を説いている。天地開闢の時、炁は存在していないかの如く、万物は生じなかった。炁が存在してはじめて生命の始まりとなった。

第三・四句で宇宙と生命の全体像を述べた後、第五・六句「常無以観其妙、常有以観其徼」で個々の生命について述べる。「常」とは、永久不変の意味であり、「無」と「有」は、第三・四句の「無炁」と「有炁」を指している。「徼」とは、求める・要求すること。この句は個々人の生命の角度から論じている。卵子が母体で育まれているとき、その始まりに炁は見られないものの、この時から変化の妙を観察することができる。受精して後、炁が存在し、生命の始まりとなる。生存のために本能的欲求が生じる。胎児が子宮で育まれる中、細胞分裂が繰り返されて臓器が形成される。生まれてから後も人体内部で細胞の生成と死滅が繰り返される。そして、社会レベルで人は様々な活動を見せる。これが生命の実態である。

第七・八句「両者同出而異名。同玄玄之又玄」の「両者」は、道と炁を指す。この句では、道と炁は言葉の上で異なるように見えるが、道は本体・理であり、炁は運用・変化であり、両者の根源が同一であることを示す。両者一体の有様は玄妙で表現できないものである。第九句「道炁衆妙之門」は、修練の法門に関わることであり、自ら実践する必要がある。

道教の経文は対句構造を頻繁に用いる。この経文も対句構造であり、前半の八句で区切りがつくのになぜ九句あるのか?道教では九を「極数」という最大・最多・最長の意味を持つ数とする。そのため、総論としての第一章の経文を九句としたのだ。

天師府内伝『老子道徳経』は、各章の経文の下に一つの符を配している。符より現れる炁の流れが体内の炁と経文の内容とを呼応・調和させ、より深い教理の理解へ導くと共に、炁の用い方を体得させる。天師府はこのようにして「経符一体」の内伝『老子道徳経』を修練法として用いている。